[01 / LEYDA-MONO] · ST.42 / 20
ネルブラ荒野にて
ネルブラ荒野にて
JF+12 環境層:地表・腐汁風塵帯 ネルブラ荒野 北域(果汁の塔から320km)
視界の右半分が橙に染まる。音は遅れて追いついてきた。トラックの排圧タービンが根元から裂け、灰泡と魚醤の混合が、拡散ノズルごと砂に散っている。
グラインディッシュは片膝を砂にめりこませ、反対側の手でバンパーの破片を握っていた。指のあいだを赤が伝う。赤の出所は自分の掌か、別の誰かか、確かめる時間がなかった。
十歩向こうで、少年が動かない。甲殻のこめかみが砂にめりこみ、複眼の半分が鏡のように空を映している。虫族の男が二人、排液溝で灰泡に埋まっている。そちらは息があるのかないのか、輪郭でしか判らない。
頭上、三つめの殻童が、まだ測量している。
機械声が、排気の底から、咳のように言葉を押し出した。
「なんで、こんな時代に生まれたんやろ」
――その朝のこと。
集落へ
荒野に、ひび割れた一本の道があてどなく延びていた。整地と呼ぶにはほど遠い。地平の向こうまで続く、荒れた地面に黒い燃えカスを敷いただけの線。それは次の集落までの目印として、かろうじて機能している。
トラックが泡混じりの砂塵を巻き上げ、鈍い呼吸を続ける。車体じゅうに広がる錆が砂利と擦れ、車輪の一巡ごとに、細い音が群れて鳴いた。
果汁雨は音を持たない。雫が落ちるたび、音のかわりに色を置いていく。着弾点だけが、不意に鮮やかな橙へと変わる。曇った窓がいったん世界の輪郭を奪い、やがて曖昧なまま返す。
ダッシュボード脇のスピーカーが、咳を混ぜた機械声で告げる。
「錆が鳴いとる」
運び手は、激しく揺れる車内で、外れかけたオレンジ色のサングラスを押さえ、アクセルを踏み込んで呟く。
「走れ。燃料があるうちは、まだ生きられる」
地平のふちに琥珀色の湖が見える。刃の背のように反った光は、水ではない。凝固した歴史――甘く腐れた果汁の塊が、冷たくきらめき、かすかに呼吸している。
さらに遠く、丘の上には崩れた神殿が残り、その壁には巨人の白骨がもたれかかっていた。砂交じりの風が肋骨の間を吹き抜けていく。
トラックが前方の砂塵を深く吸い、後部ダクトから橙の煙を吐く。舞い上がる微細な泡が、乾いた咳をひとつ。無気力な機械声が、問いを投げる。
「なんで、こんな時代に生まれたんやろ」
運び手が橙のTシャツの裾で顔を拭い、応える。
「知るか。輸送機が錆を嫌うな」
ダッシュボードから吸口のついた管を引き、喉に火を通すように深く吸う。橙の煙がゆっくりと吐き出され、車内は魚醤に柑橘を垂らしたような匂いが満ちる。
前方、揺らぐ蜃気楼の縫い目に、小さな影がほどけていく。その先に、低いゲートが見えた。
門、視覚の変容
熟成された腐汁の香は、一拍先の世界を見せる。
運び手は喉が焼けつくような感覚を無視し、咥えた管を深く、さらに深く吸い込む。体内を熱いジュースが走り、虹彩の褐色が、甲虫の殻めいた緑へと転じる。
視界が一段、嵩を増す。空中の微細な泡が焦点を得て、遠いはずのゲートが、すぐそばに立ち上がる。
錆びた鉄骨。傾いた監視塔。最上部の梁に、虫の頭をした幼い狙撃手が立っている。魚骨を綴じた白く頼りない銃を担ぎ、頭部には半透明の触角が揺れる。少年が片手の鏡で光を規則的に弾く。
警告でもなく、敵意でもない。ただ「気づいた」という、乾いた告知。
「……警告やないな」
クラクションを短く。合図を返し、アクセルをひと息で踏み増す。エンジンの唸りが一段上がり、車体が骨ごと揺れる。愚痴をこぼすように、機械音がノイズの途切れ目から落ちる。
「……到着まで速度上げるで」
後部ダクトの橙は濃く、短い。泡がひとつ咳をする。少年の光が八拍のリズムで明滅する。虫族の眼は、生まれつき遠くを見る。煙はいらない。世界の継ぎ目が、彼には最初から見えている。
雨が止み、熱波に歪む地平。少年の光が明滅を続ける。ゲートは、まるでそれに応えるかのように、運び手の到着とともに口を開く。
検疫
トラックが減速する。低い第一ゲートをくぐると、道はさらに痩せ、目の前で第二バリケードが口を閉じた。監視塔の梁から、幼い狙撃手が小型の検疫ドローンを放つ。
蜂を模したドローン達が、トラックの周りを螺旋状に周回し、緑の光で車体表面を舐めるようにスキャンする。フルーツ族の痕跡、果肉繊維反応があれば、数日は砂の上に立ち往生だ。
機械声が、咳を混ぜてぼやく。
「早う洗え。錆が進む」
運び手が呼吸を整え、短く返す。
「あとや。まず通る」
緑の光はやがて薄れ、蜂群は塔の巣箱へ帰る。空気は無音。日差しは衰えず、彼らの輪郭だけを硬く残す。
運び手が運転席を離れ、鼻腔に付着した砂を払う。白と緑に尖った髪が、彼の動きに合わせて揺れる。靴の下で鈍い音がして、砂の下に埋められたハッチが現れる。金属扉を二度、強く叩く。
開口部から顔を出したのは、真紅の滑らかな外殻と、ぎっしり並んだ個眼を持つ、てんとうむし頭の男。こめかみや顎から伸びる細い脚が、かすかに震えている。微かに体を傾けると、外殻が擦れ合い、乾いた音が鳴る——頸部の鼓膜と胸腔の液圧が、挨拶のかわりに調律される。
運び手が目録を差し出す。前時代の道具と燃料、糸と釘、薬と濾過布。虫族の男がそれを無言で受け取り、指先を荷台へ向ける。二人は言葉を使わない。手の角度と体の配列だけで、必要な秩序はすでに通じ合っている。
塔では、さきほどの少年が巣箱を抱え、蜂群の帰巣を見守っている。風は止み、音はない。日差しだけが、取引の重さを冷たく照らしている。
荷役
地面のハッチが鈍い金属音を響かせ、ひと息ぶんだけ砂を吐く。ひんやりした地下の空気が地上へ流れ、水色の作業服を着た虫族の作業員たちが、編み上げのブーツで砂を踏みしめ、次々と姿を現す。
荷台の扉が跳ね上がると、彼らは言葉を交わさず、一糸乱れぬ動きで持ち場につく。目録と現物を照合する一体は、触角の先に薄い青の染みがある。パレットへ荷を積み上げるもう一体は、こめかみの甲殻が古い傷で少し欠けている。三体目が、油圧の甘い手押しフォークリフトを操り、荷をゲート脇の影へ静かに送っていく。
各自が完璧に連動した、ひとつの機械のように振る舞う。呼吸はそろい、互いの体の角度だけで指示は足りる。
最初に顔を出した個体が、運び手の前に戻る。外殻がわずかに傾き、擦れた音が短く鳴る。感謝にあたる一音。日差しは弱まらず、輪郭だけを硬く残している。
機械声が砂に落ちる。
「急げ。錆がまわる」
返事は要らない。荷の列は最後まで流れた。てんとうむし頭の男が胸元から細い魚骨のペンを取り出す。インクは使わない。顎の根もとの小嚢から粘る香液を一滴、針先に移す——香りで書く。線は薄く、しかし長く残る。金属板の目録へ針が触れる。
第一層:形(幾何の骨組み) 第二層:肌理(針の微傷が刻む個体差) 第三層:香(揮発の順序が合図になる)
三層の署名
乾きは早い。だが匂いは、夕方まで残る。運び手が目録を受け取る。宅配業者の欄に、機械的に打ち込まれた活字が、運び手の名を示していた。
Grindesh Verdino(グラインディッシュ・ヴェルディーノ)
塔の上で巣箱を抱える少年は、蜂群を巣に戻し、無言でグラインディッシュを見つめている。目録の端で香りがひと拍だけ強くなる。受領完了の合図。
グラインディッシュが安堵の息をつく。機械音が咳をひとつ。
「……洗車や!」
排圧タービンが圧を抜き、短い高音が砂光にほどける。
第二ゲートがゆっくり開く。監視端末の隅で「区域視度 一時回復」の表示が一拍だけ灯り、すぐ消えた。消えたはずの検疫の緑が、細い尾を残して一度だけ戻り、車体に走った。
洗車(乾式)と歌
期待より軽い。いつも通り。
トラックは柵の内側で停止している。監視塔の少年が、荷台から灰泡袋を下ろす。袋の中には、殻灰と藻粉を混ぜて発泡させた乾式の泡。
少年は袋を車体に軽く叩きつけ、酸性の果汁膜を浮かせては、甲殻箒で払い落としていく。水はない。風笛を回し、圧縮空気で粉と泡を吹き飛ばす。笛は低く二度、鳴った。
その作業の上に、カーステレオから上機嫌な歌が流れる。
〈洗て、洗て、錆は逃げろ/泡よ、立て——〉〈今日の路は一本や/迷いは要らん——〉
「……機嫌ええな」
グラインディッシュがその背を一度だけ見て、視線を外す。歌は軽く、世界は重い。
機械声が歌を止め、短く返す。
「洗えば生きられる」
集落の隅、掘っ立て小屋の窓口。目録に香印が増え、受付の台に置かれる。窓口の向こうで、無言の手が粗末なアルミパイプの束(棒貨)を出す。金属は細く長い。側面に刻みと匂い塗りがあり、数本まとめて麻紐で束ねてある。
グラインディッシュが受け取った束の重みを確かめる。期待より軽い。いつも通りだ。棒貨を荷台用の袋に落とし、踵を返す。燃料、食料、潤滑油。必要は待たない。
背後で、少年の風笛が一度だけ高く鳴り、リヤバンパーが裂けた。
上空から空気が先に歪み、音が遅れて追いつく。粉と泡の幕が一気に剥がれ、カーステレオの歌が途切れる。
少年の体が弾かれ、砂の上を二度、跳ねる。甲殻箒が空で回転し、遠くで斜めに刺さる。圧は短く、尖っている。検疫の緑が、側板に一度だけ戻り、薄く走った。
グラインディッシュは口の奥に血の味を確認し、視界の端で破片の軌道を数える。バンパーの縁に、棘状の殻片が斜めに食い込んで残っている。
破片は、荒野の熱気の中で異常に白く、冷気を放っている。体温を捨てた果実の「凍眠」が、検疫の緑を素通りしていた。
フルーツが何処かから、見ている。グラインディッシュが砂を払う。少年が片肘で起き上がり、ひびの入った口で息を探す。
風は止み、音はない。
命令詩(字幕)
こめかみが痺れる。酸が唾液腺を焼くような疼き。それが細かな振動に変わり、極小の針虫がカリカリと骨の内側を伝う感触。
視覚の下縁、霜の微針が無音で刺さる。打鍵の震えが骨へ伝わり、凍った刻印が視野下に現れる。
同じ行が、砂の上にいる全員の視界へ映り込む——命令詩だ。
— 膝はチルド室に収めよ — コンプレッサの律動は門を開け、密閉音の復唱で閉じよ — 果肉をフリーザーに供せ 霜の白に沈めよ — 製氷皿は整列し 声を氷面で止めよ
命令は口の外に生まれる。家電語で詠われるとき、現実は最短距離で折れる。
滴胞構文覚書・断章
グラインディッシュが片眼を細め、奥歯を噛んで呼吸をずらす。吸二・止一・吐四・止一。そっと灰泡袋を裂く。焦げた柑橘、魚油が香る布で口鼻を塞ぐ。
詩は消えないが、意味の刃は鈍る。
遠くで風笛がもう一度、低く鳴る。グラインディッシュが下瞼に灰を引き、短く命じる。
「鏡、貸せ」
少年のポケットから通信用の鏡をひったくり、膝の前に伏せて砂へ縁を突き立てる。少年の指が震え、膝が棚を探すように下がりかけている。調律不全の摩擦音で少年が顎を鳴らす。
「だめだ、もうみえてる」
グラインディッシュが鏡を手渡し、命令する。
「見るな。鏡で潰せ」
少年が片肘で立ち、鏡を地面に伏せ、視野の下を圧縮する。文字が反射光によって、視界の隅に追いやられる。
事態に気付いた虫族の男が風笛を止めに駆け出す。密閉の音は生まれない。詩は残るが、刃は鈍い。
「静かに」
砂丘の向こうで、測量杭の墨が半拍だけ濃くなった。現実の地図が、わずかに戻る。
風が戻るまで、あと三秒。
殻童(内側の核)
リヤに割れた棘が転がる。殻片はまだ温い。
空気が低い羽音を立て、中空に三つの果実が浮遊している。棘に包まれた体が不規則に揺れ、こちらの位置を測量している——殻童。それも厄介な浮遊班だ。
グラインディッシュがトラックのアンテナを引き伸ばし、先端に魚骨の鍵針を噛ませる。アンテナを釣り竿のようにしならせ、頭上を旋回する殻童のひとつを狙う。
風切り音と共に鍵針が空を裂き、浮遊する棘の果皮へ食い込む。
「落ちろ。」
ワイヤーが鳴り、殻童の詩核嚢が浅く裂ける。焦げた柑橘が一段強く匂い、空中で火花が散る。グラインディッシュは家電語の清涼崩れを一瞬で認識し、制御を失った殻童を砂地に叩きつける。
命令詩の中継が、一拍だけ途切れる。
少年が片肘で立ち直り、鏡の角度をもう一段寝かせ、視野の下五分を圧縮する。複眼に増殖した文字は崩れ、膝が自由を取り戻す。
「呼吸、ずらせ」
グラインディッシュはトラックの排圧タービンを直結し、53/97Hzの二値ビートを交互に立てる。“開けよ/閉じよ”の拍は噛み合わず、二つめの殻童が空中で測量を誤り、斜めに落ちて、そのまま動かなくなる。字幕の二行目が空振りをはじめ、命令主の居場所を炙り出す。
少年が合図を送る。
「つぶした。二つ」
風笛は止まり、密閉の音は生まれない。機械音が苦しげに声を上げる。
20メートルほど先。柵の影で何者かがよろめく。砂利を蹴る音とともに、棘の生えたサングラスが姿を現す。
「そこか」
ドリアン(本体)
「殻童、壊しよったな!あれ、なんぼかかる思てんねん」
褐色を混ぜた緑の外皮。配管にダクトテープを巻き、家電を改造した銃器を背負う。ドリアン、王の残党。
「燃料、足りひん。分けてーや」
大声で叫ぶドリアンに、グラインディッシュが舌打ちを返す。
「やるわけないやろボケ」
すぐさま灰泡袋を担ぎ、排圧管をトラックの排圧タービン継手にねじ込む。泡が低く鳴り、冷却嚢の縫い目から白を押し上げる。
続いて吊り鎖の枠を反転し、排圧管の先に鏡枠を噛ませて拡散ノズルに仕立てる。灰泡、魚醤、香液を一本の管に束ね、反冷蔵ノイズ器を荷台下にぶら下げる。
ドリアンが銃口を構えた。射撃周期は三秒。機械音が秒読みを始める。
「……周期、三」
三を告げ終える前に、ドリアンの指が先に動いた。銃口から家電語の悲鳴が、音より先に届く。
視界の右半分が橙に染まる。
排圧タービンが根元から裂け、反冷蔵ノイズ器が——灰泡も、魚醤も、拡散ノズルも——ひとまとめに砂へ散った。圧力波がグラインディッシュの胸骨を内側から叩く。体が二歩ぶん、後ろへ抜ける。
片膝が砂にめりこむ。反対の手が、地面を探って、リヤバンパーの破片を握っていた。握った時の感触に覚えはない。破片に斜めに食い込んだ棘状の殻片——熱気のなかで異常に白く、冷気を放っていた、あの一片——の縁が、掌の肉を浅く引いていた。指の間を赤が伝う。血の出所は自分の掌か、別の誰かか、確かめる時間がなかった。
十歩向こうで、少年が動かない。甲殻のこめかみが砂にめりこみ、複眼の半分が鏡のように空を映している。排液溝の縁では、虫族の男が二人、灰泡に首まで埋まって動かない。触角に青い染みのある個体と、こめかみが欠けた個体。息をしているのかどうか、輪郭では判らない。
頭上、三つめの殻童が、まだ測量している。
機械声が、排気の底から何かを言おうとした。掠れて、途切れて、「なんで」で止まった。
橙の煙がまだ右を流れている。
グラインディッシュは握りを確かめる。右手にバンパーの破片。破片に斜めに食い込んだ凍眠の殻片。ドリアンの命令詩は冷凍系。この殻片も冷凍系。外皮の継ぎ目に押し込めば、ドリアン自身のプロトコルが、ドリアン自身を凍らせる。
立てるかどうかは、立ってから考える。
空気の味が変わっていた。魚醤、香液、焦げた柑橘——反冷蔵ノイズ器の中身が、束ねられぬまま、爆風で空間じゅうに撒かれている。濃度は薄い。計画していた噴射の、十分の一もない。
だが、化学成分は揃っていた。
欠けているのは、署名。周波数。開けよ/閉じよの二値ビート。
左手を砂に突く。裂けたタービンの筐体が、すぐ横で煙を漏らしている。金属。湾曲。筐体までの距離、半歩。
右手のバンパーを持ち直す。
叩く。
一、一一、一、一一。53/97。
破片と筐体が金属の拍を立てる。澄んではいない。錆と血が拍子を濁す。それでも二値は崩れない。拡散していた霧の中を、拍が走り抜ける。化学と周波数が、空間のどこかで、ひとつに噛み合った。
ドリアンの銃口が、微かに揺れた。
二発目が来る。
銃口の家電語が、ノイズに一度触れ、座標をほんの半歩、誤読する。弾道がグラインディッシュの右肩を掠めて、後方の砂に柱を立てた。
ドリアンの呼吸が、つまずく。
「なんで外れ——」
半秒。命令詩の詠い手が、自分の詩が外した理由を探しかけた、その半秒。グラインディッシュはバンパーを叩く手を止め、同じ破片を握ったまま走り出している。掌の赤は気にしない。
煙の影を使って、斜めに、懐まで滑り込む。
凍眠の殻片を、ドリアンの外皮の継ぎ目へ差し込む。
果皮が一拍だけ白む。それから、白みが内側から外へ漏れ出した。ドリアンが詠んでいた冷凍の署名が、体内で自分自身と重なり、干渉し、自分自身を凍らせた。
「いっだ、なにすんねん」
外縁の棘が剥がれ落ち、棘の間で結ばれていた苦い筋がほどけ、殻が乾いた音を残して分解を始める。
頭上、三つめの殻童が、測量を誤り、落ちた。
ドリアンの核が転がる。遠い土塁の陰へ、匂いの道を失ったまま、斜めに逃げる。残ったのは、無臭の空の殻と、軽い棘だけだった。
風が戻り、音が遅れて鳴る。カーステレオは沈黙を守り、トラックの排圧だけが咳をする。
門は無音で閉じられ、密閉の音は最後まで生まれなかった。
少年が片肘で身を起こし、鏡だけを指先で引き寄せた。複眼の奥で涙が鳴る。
「たすかった」
排液溝から、灰泡に埋もれていた虫族の男が、ひとり、またひとり、粘つく音を立てて首を動かした。息は、あるらしい。
グラインディッシュは少年の割れた顎を眺め、接着剤を手渡す。
「礼は要らん。次は早めに下を潰せ」
見積(棒貨と嘆息)
窓口。受領伝票の端に修繕票が付け足される。棒貨の刻みとは別に、細い数列が並ぶ。数列の末尾に小さく「V↓」の印字。受付がその部分だけを指で隠す。
高い。思ったより、だいぶ。リヤバンパーの破孔。排圧管の継手。タービン筐体の裂け。声の出力低下。搬送を生業とする者は紙ではなく、重みで考える。棒貨は軽い。トラックが低く、長くうめく。
「…足、抜ける。油、要る」
グラインディッシュが溜息交じりに言う。
「……仕事で返す」
受付の影は、顎の角度で同意を示す。
集落の中央、魚缶の採掘坑。骨は武器の芯に、腐汁はフルーツ忌避剤と燃料に、目玉と筋は機械の感応器に化ける。作業台の隅に、片面鏡のゴーグルが置かれていた。鏡面の裏側だけ磨かれている。
坑の縁に据えられた採掘装置は、風笛の古型と汚れた歯車で動いている。効率は足りない。
グラインディッシュが排圧管を分岐させ、鏡枠で偏流をつくる。香液の導管に濾過布を足し、泡の粒度を揃える。即席の逆止弁は、少年が持つ巣箱の留め金で事足りる。グラインディッシュが少年に指示を出す。
「止めろ。流せ……戻せ」
「うごいた」
装置が低く回り始めたころ、坑の底で橙色の鉱が顔を出す。殻に似た光沢。だが汁ではなく、温みがある。虫族の男たちが無言で肩を揃え、家材にするつもりなのか、慎重に担いでいく。
グラインディッシュはその色を見て、一度だけ足を止めた。名前は持たない。まだ。だが、声のない音が、掌へ移ってくる。
のちに、ジューストニウムと呼ばれる、世界の異常を測るための石。そしてグラインディッシュの、長い戦いの道具になる。
「これ、ええ石なん?」
少年が欠片を掌にのせ、差し出した。顎の先が一度、僅かに持ち上がる。グラインディッシュはうなずき、親指大の欠片を袋の底へ落とす。
「多分、使える」
ふと、少年の胸元を見る。作業着の名札には、手書きの滴線体で名前が記されている。
スオ・カンジ。数字と棚を愛する者の響きだ。
「在庫管理、向いてそうやな。」
少年が甲殻のこめかみを掻きながら、肯定のリズムで甲殻を擦らせる。遥か未来の子孫が市場を築くことなど知る由もなく、ただ真面目な顔で「貸し借りなし」のサインを目録に書き込む。
見積もりの数字は少しだけ削られ、棒貨の束は、少しだけ重くなった。トラックはまだ咳をするが、走れる。カーステレオは、古い歌を思い出すまで黙っている。
グラインディッシュが目録袋を肩にかけ、次の線路を目でなぞる。荒野の風は、相変わらず味が悪い。それでも道は一本。迷いは要らない。
グラインディッシュ「行くか。」
機械声「あいよ。」
助手席のスオが楽しげに甲殻を鳴らす。
旅とは“未命名”を運ぶこと。名が与えられる前に、まず手で持て。
搬送詩篇・初稿