[01 / LEYDA-MONO] · ST.23 / 20

#3 善良監督官

2026.04.15 · OSAKA-SHU

#3 善良監督官
▼ LEYDA

#3 善良監督官

理解はしばしば、要約の長さに帰依する。

注釈神学小品集・要約篇


四十一日目

ネルブラ荒野 南域:奉杯修復所・倉庫区

修復所の東側。広場からは路地を二本挟んで約八十メートル。旧軍の弾薬庫を転用した建物で、天井高六メートル。鉄骨の梁が縦横に走り、糸が十一本張られている。南東の角にポンプリーズカの定位置がある。床はコンクリートで、排水溝はない。照明は入口付近に吊るされた油灯一つ。奥は暗い。

五回目の定例検査から四十一日、奉杯祭から三十日が経っていた。定例検査の通知は来ていない。

第一回検査から数えて、六回目の検査が予定されていた日から十二日が過ぎている。月に一度の検査は、初回から五回目まで二十八日から三十一日の間隔で実施されていた。六回目だけが来ない。

通知が来ないことについて、修復所の事務員に問い合わせることは可能だ。ジジバルバは問い合わせなかった。問い合わせると、五人が検査を気にしていることが記録される。記録されることは、五人にとって不利になりうる。検査を気にしているということは、検査されると困る何かがあるということだから。

だが検査が来ないことは、別の意味で困る。

ジジバルバは左肩の鱗を指で触った。鱗は完全に再生していた。白かった再生途中の色は、周囲の鱗と同じ黄褐色に戻っている。表面は硬く、間隙は閉じている。

間隙が閉じた鱗の下に、奉杯祭の夜に投与した琥珀の残留物が封じ込められている1

残留物は果肉に沈着する。鱗が再生すると、沈着した残留物を外部へ排出する経路が閉じる。排出されない残留物は蓄積する。蓄積した状態で次の琥珀投与を行うと、構文発声器官への負荷が増大する。負荷の増大は副作用を悪化させる——吃逆、口腔の痺れ、耳鳴り。最悪の場合、詩が出なくなる。出なくなった詩は、次の投与でも出ない可能性がある。

声が出なくなれば、奉杯祭は成立しない。奉杯祭が成立しなければ、規格の根拠となる『自然発生的な合意』が発生しない。合意がなければ、規格は紙切れに戻る。

検査は、浄化ではなかった。

検査官は禁制物質の検出のためにやって来る。だが、剥がされた鱗の下の未熟な果肉は、次の琥珀投与の吸収口として機能した。検査の傷が、琥珀の入口になる——これは検査官の想定外の副次効果であり、五人にとっては唯一の利点だった。

検出を免れるには、再生する前に——あるいは再生した後に——自分たちで皮膚を剥がし、粘膜を削ぎ、残留物を物理的に排出するしかない。それが『浄化』だった。

検査官はやって来ない。来ない日が続くほど、五人は自分たちで鱗を剥がす頻度を上げた。検査が月一回だった頃は吸収口の維持が自動的に行われたが、いまは吸収口の維持も、残留物の除去も、自分たちの手で行う必要がある。

外から来る検査が止まると、検査官の席は空いた。空いた席は埋められる。埋めたのは五人だった。検査官を追い出したのではない。空いた席の手順を、空いた席に座った者が引き受けた。引き受けた者は、引き受ける前の者と同じ動作をする。同じ動作をする者は、同じ役割を果たす。果たされた役割は、誰が果たしているかを問われない。


浄化

倉庫区の奥は暗い。入口の油灯の光は十メートルほどで届かなくなり、それより奥は梁の隙間から差す外光だけだ。外光は時間帯によって角度が変わり、午後三時を過ぎるとほぼ消える。

五人が集まったのは午後四時だった。

ポンプリーズカは定位置の南東の角にいた。スクロヴロッカは入口から十五メートルの位置に立っていた。モルドラッサは厨房から鍋を持たずに来た。グリッボロンカは梁の下にいた。最初からいたのか、あとから来たのかは、他の四人にもわからなかった。

ジジバルバは左肩の鱗を指で示した。

誰も何も言わなかった。

スクロヴロッカが修復所の工具箱から借りたペンチを取り出した。量産品だ。検査官が使ったものと同じ型。握りの部分に赤く染めた麻布が巻いてある。検査官のペンチにも同じ布が巻いてあったかどうかは、覚えていない。

スクロヴロッカはジジバルバの前に立ち、左肩の鱗にペンチの先端を当てた。鱗の縁に沿って、果皮と肉の境界を探る。検査官と同じ角度、同じ圧力。位置も検査官と同じ三か所——左肩第三、左脇第七、背部第十二。

吸収部位は左手首だが、左手首からは剥がさない。左手首から入った琥珀は血流に乗って全身に回るため、残留物はどの部位からでも取り出せる。検出のしやすさは部位によって異なり、検査官は検出率の最も高い三か所を選んだ。その三か所が、浄化の三か所でもある。検査官が毎回同じ位置を剥がすなら、同じ位置を先に浄化しておけばいい。

スクロヴロッカの黄色い湾曲した頭部は構造上、常に足元を見る角度に固定されている。だがペンチを使う作業は、この角度で最も精確にできる。

一枚目。鱗が外れた。果肉が空気に触れ、甘い腐臭が小さく立った。

検査官なら『異常なし、次』と言った。スクロヴロッカは何も言わなかった。二枚目。三枚目。三枚で足りるかどうかは、わからない。検査官が三枚剥がしていたから、三枚にした。根拠は前例だけだ。前例に基づく手続きは、根拠に基づく手続きより安定する。根拠は反論できるが、前例は『前にもそうした』としか言えない。『以前そうした』に対する反論は、『以前が間違っていた』であり、それは過去の全体を否定することになる。過去の全体を否定する者は少ない2

スクロヴロッカは帳簿の余白にある小さな追記を見て、ジジバルバの右手の人差し指を取った。爪の根元に小さな鱗が一枚ある。標準の三か所には含まれない位置だ。追記にはその位置を剥がすよう指示があった。誰が書いた追記かは、追記には記されていない。スクロヴロッカはペンチの先端を鱗の縁に当てた。

鱗は剥がれなかった。縁だけが浮いた。浮いた縁は、剥がれた鱗より長く残る。剥がれた鱗は油紙に包まれて記録されるが、浮いた縁は記録に含まれない。含まれないものは、存在しないか、あるいは常に存在し続けるかのどちらかだ。

次はスクロヴロッカの番だ。

モルドラッサが調理用の手袋を嵌めた。手袋は白い。検査官の手袋も白かった。手袋の内側には滑石粉が塗布されており、嵌めるとき微かな粉の匂いがする。検査官の手袋は無臭だったか、粉の匂いがしたか、スクロヴロッカは覚えていない。

モルドラッサはスクロヴロッカの頭頂部を左手で掴み、後方へ押した。首の腱が軋んだ。右手の指でスクロヴロッカの舌を引き出した。舌の裏側を確認する——確認して、どうするのかは、誰も知らない。検査官は唾液腺を目視していた。目視して何を見ていたのかも、厳密にはわからない。わからないまま、同じ手順を踏む。手順を踏むことが目的であり、手順の結果は手順の外にある。

モルドラッサは舌を引いている間、わずかに口角が上がっていた。口角が上がっている理由は、おそらく集中だ。彼は食材の品質を確かめるときも同じ顔をする。舌の弾力、唾液の粘度、粘膜の色。観察の対象が人間の舌であっても、観察の技術は調理と同じだ。同じであることが、この行為を耐えられるものにしている。同じでなければ、これは拷問だ。同じであるから、これは手続きだ。

スクロヴロッカの唾液はまだ滑らかだった。


モルドラッサの頬は、ポンプリーズカが処理した。

ポンプリーズカは綿棒を使わなかった。糸を使った。天井の梁から下ろした糸のうち、最も細いものを三十センチほど切り、両端を指に巻きつけた。糸の幅は〇・五ミリ以下。寄進伝票の繊維を四重に撚ったもので、強度は高いが柔軟性がある。

糸をモルドラッサの頬の内壁に沿わせ、粘膜の表層を薄く削いだ。綿棒より精密で、綿棒より痛い。痛みの種類が違う。綿棒は鈍い圧力。糸は鋭い線。鋭い線は、表層だけを除去する。表層だけを除去すると、深層の組織を傷つけない。傷つけないことは優しさではなく、効率だ。深層を傷つけると再生に時間がかかり、再生中の組織は検査で異常値を出す可能性がある。異常値を出さないことが目的であり、痛みを減らすことは目的ではない。

モルドラッサは削がれている間、目を閉じなかった。磨き上げられた紅い頬の内側を糸が走る感覚を、彼は味覚に似たものとして受け取っていた。味覚に似たものは、恐怖にならない。恐怖にならないものは、耐えられる。


ポンプリーズカの萼は、グリッボロンカが処理した。

グリッボロンカの手は大きく、指は太い。検査官の指よりも太い。太い指で萼を掴むと、萼の全体に均一に圧力がかかる。検査官の細い指は萼の一点に圧力を集中させたが、グリッボロンカの太い指は分散させる。分散した圧力は、集中した圧力より痛みが少ないかもしれない。あるいは、痛みの面積が広いだけかもしれない。

グリッボロンカは萼を掴んで開いた。開いた萼の内側を確認する——確認して、何を見るのかは、グリッボロンカも知らない。検査官が覗いていたから、覗く。覗いた結果は報告しない。報告する相手がいないからだ。報告する相手がいない手続きは、手続きとして完結している。完結しているものは、外部から評価されない。評価されないものだけが、誰にも止められない。

ポンプリーズカの萼が解放されたとき、赤い皮膚が痙攣するように波打った。検査のときと同じ波だ。同じ波が、異なる手から生じた。手が異なっても波が同じであることは、波が手に属していないことを意味する。波は萼に属している。萼が受けた圧力に対する応答であり、圧力の出所は問わない。


グリッボロンカの処理は、三十秒で終わった。

ジジバルバが彼の前に立ち、紫の粒の密集した頭部を見た。見た。それだけだ。

「おる」

ジジバルバが言った。

グリッボロンカは動かなかった。粒の一つがわずかに光の角度を変えた。変えたのか、ジジバルバの視線の角度が変わっただけなのかは、確認できない。

『いたんですか』の内輪での再現。検査官の驚きはない。代わりに、確認がある。確認は驚きより事務的で、驚きより穏やかだ。穏やかさは、この場面において、他のどの処理にもなかったものだ。

「おる」と言ったあと、ジジバルバはグリッボロンカの足元を見た。床のコンクリートに、紫の粒が三つ落ちていた。三粒は前回もそこにあった、かもしれない。前回も今回も、誰も拾わなかった。拾う手続きがない。手続きのないものは、床にあるか、ないかのどちらかだ。床にあるものは、誰かが掃く。掃かれるまでは、ある。

五人の処理が終わった。処理の痕跡は五つ残った。倉庫区には、ジジバルバの鱗が三枚、スクロヴロッカの唾液が少量、モルドラッサの粘膜片が微量、そしてポンプリーズカの萼の表面に、グリッボロンカの指の圧痕が残った。

誰もこの行為に名前をつけなかった。名前をつけないことは、全員の同意だった。同意は言語化されなかった。言語化されない同意は、撤回する手続きがない。撤回手続きのないものは、終わらない3


審議

帝都・聖務院 奉杯評議室(二階・南向き)

修復所から南へ徒歩二十分の停留所を経て、市電で四十分。聖務院は帝都中心部、果汁の塔に近い官庁区にある石造りの建物で、奉杯評議室は二階の南向きの部屋。面積は約三十畳。天井高五メートル。窓は南壁に三つあり、光は机の上だけを照らす。室内に机が三列、椅子が二十脚。壁側に立会席がある。

倉庫区での処理から四日後、規格草案の審議が聖務院で行われた。

草案は修復所の名義で提出されていた。修復所の管理者——帝国の中級官僚で、月に一度、帝都から視察に来る——の署名がある。署名は管理者が押印したもので、管理者は草案の中身を読んでいない。中身を読まない管理者の署名は、管理者の判断を含まない。判断を含まない署名は、純粋な権威だ。純粋な権威は、中身によって傷つくことがない。

審議室の空気は鉄と紙の匂いが混じっていた。聖務院は元は軍需工場の事務棟で、壁にはまだ溶接の痕がある。工具の影がずらりと吊られている——のは過去の話で、いまは吊り棚に書類が積まれている。書類の重さで棚が歪んでいる。歪んだ棚は直されていない。直すための申請書は、棚の上の書類の中にある。

票を持つのは三座——王族司祭、監督局、市民代表。草案提出者は壁側の立会席に限り、要約札への質疑に答える。

ジジバルバは傍聴席の端に座っていた。上着は修復所の事務員が貸した古い黒の上着だった。シャツは白襟。洗われてはいるが折り目が整っていない。左肩の鱗の跡は、袖口で隠れる位置にある。聖務院の警備は上着と白襟を見て通過を許可した。服装が『審議出席に足る』と見えたからだ。見えたものは、見えた通りに処理される。傍聴席は評議室の北壁に沿って並んでおり、窓からの光は届かない。暗い席だ。彼は王の姿勢を取らなかった。背を丸め、膝に手を置き、紙の束を膝の上に載せていた。紙の束は規格草案のコピーで、本文は四条。注釈は四条の三倍の長さになっている。

スクロヴロッカは答弁台の横に立っていた。要約の束を胸に抱えている。要約は一枚三行。『安全・円滑・恩恵』の三行の下に、スクロヴロッカの名前が署名欄に入っている。スクロヴロッカの名前が入っているのは要約だけで、草案本体にはない。草案本体に名前があるのは修復所の管理者だけだ。管理者は今日の審議に出席していない。出席していない者の名前が署名欄にある文書は、出席者のうち誰が責任を負うのかが不明だ。不明であることは、全員が等しく責任を分担していることと、誰も責任を負っていないこととの区別がつかない状態を意味する4

モルドラッサは廊下の端に配茶台を出していた。評議室から配茶台まで八メートル。温かい蒸気が廊下を漂い、評議室の入口まで届く。蒸気の温度は室内の気温より三度高い。三度の差は、体感では『温かい空気が入ってくる』として知覚される。温かい空気の中で行われる議決は、冷たい空気の中で行われる議決より合意率が高い——という統計は存在しないが、モルドラッサはそう信じている。信じているものは実行される。実行されたものは結果を生む。結果が統計の代わりになる。

ポンプリーズカは見えない場所にいた。評議室の天井は五メートルあり、天井裏には空間がある。空間に糸を張ることは、修復所の倉庫区と同じ手順でできる。手順が同じなら場所は問わない。ただし聖務院の天井裏に糸を張るためには、事前に建物に入る必要がある。入る手段は、モルドラッサの配茶台の搬入に紛れることだった。配茶台は台車に載せて運ばれ、台車は廊下の物置に保管される。物置から天井裏への点検口までは三メートル。点検口は施錠されていない。施錠されていないものは、入っていいという意味ではないが、入れないという意味でもない。

傍聴席の後方の柱——あるいは柱の影——にグリッボロンカがいた。


善良な男

監督局席の監督官は真面目な男だった。

果皮は整い、靴は磨かれ、机の上の書類は角が揃っている。遅刻を知らない種類の善がそこにある。彼は奉杯祭を見ていない。聖務院で報告書を読んだだけだ。報告書には『参加者約四十名・異常なし・進捗三割』と書いてある。報告書を書いたのは修復所の事務員で、事務員は記録官からの合図に従って記録した。記録官はスクロヴロッカの合図に従った。合図の中身を知っている者は、この評議室にはスクロヴロッカだけだ。

監督官はページをめくった。

脚注⑤——『自然発生的な合意』。

「ここは、もう少し明確に」

ペン先で紙の縁を叩く。軽い音。スクロヴロッカが一歩出て、三行の要約を差し出した。

「要は、市井の祈りの拍に従属する形でございます。安全、円滑、恩恵」

三語。監督官の肩が一段落ちた。落ちた肩は、理解の姿勢だ。理解したから肩が落ちたのか、肩が落ちたから理解した気になったのか。スクロヴロッカにとっては、どちらでも同じだ。

監督官はなお粘った。

香祷残香こうとうざんしょうの評価式。列の長さとの相関を——」

ジジバルバは立たなかった。座ったまま、膝の上の紙の端に指を置いた。

スクロヴロッカはその指の位置を見て、同じ番号の要約札を差し出した。

脚注⑮——『異常値は祈祷監査官が責任をもって裁量する』

責任、という語。監督官はこの語を好む。自分の職名に似ているからだ。責任を引き受ける者がいるという保証は、自分が責任を引き受けなくていいという保証でもある。

審議の日、聖務院の廊下には修復所の利用者も並んでいた。廊下から小さな声がした。子どもが列で気分を悪くして座り込んだらしい。配茶台のモルドラッサが駆け、湯を手渡した。

「だいじょうぶ。だいじょうぶや」

『だいじょうぶ』を三度。三度目で周囲の頷きが同じ間隔になった。頷きの間隔が揃うのは、天井裏の結び目が一か所締まったためだ。ポンプリーズカの指が、糸を一本引いた。引いた糸が傍聴席の二列目と三列目の背もたれの裏を通り、座っている者の首筋に微かな振動を伝えた。糸が引かれる前、傍聴席には黙滓が落ちていた。反論されなかった発言、呑まれた異議、割り込まれない順番。黙滓は糸の振動に反応し、反応した黙滓は頷きに変換される。振動は頸椎反射を促し、頷きを発生させる。発生した頷きは、本人にとっては自発的な同意だ5

監督官は窓の外を見やった。列が見えた。列には足を引きずる老人が一人混じっていた。

彼は老人の顔を見た。見た瞬間、胃が冷たく縮んだ。老人が倒れれば列が乱れる。乱れは事故を呼ぶ。事故は報告書になる。報告書は彼の机に載る。机に載った報告書は、彼の判断の結果だ。

彼は窓から目を離した。老人の輪郭を、頭の中で塗りつぶした。白い札を持つ群れの中に埋め込み、『安全上のリスク』という欄外の注記に移し替えた。

胃の痛みが引いた。引いた瞬間の感覚は、軽くなった書類束を持ち上げたときと同じだった。言い回しを換えれば、重さは消えるのではなく、見えない場所に移動する。

彼は善い人間だった。善い人間は、安心を信じたい。安心を信じるためには、安心でないものを欄外に移す技術が必要だ。この技術に名前はない。名前がないから、善い人間にも使える。

「本規格、暫定採用でいかがでしょう。百八十日後に再審」

スクロヴロッカが即座に決議案の雛形を差し出した。雛形には、すでに印影の穴が開けてあった。穴の位置と印影板の位置が正確に一致していた。一致させるためには、事前に印影板のサイズを知っている必要がある。知っている理由を、誰も訊かなかった。

審議室の壁に、先週追加された掲示が一枚ある。『審議中の明瞭な発言は議事の妨害とみなす場合がある(脚注㊷)』。掲示は小さく、椅子に座ると視線の下に隠れる位置に貼られている。立ち上がった者だけが読める。立ち上がる者は少ない。

「待ってください」

別席から声が上がった。若い視察官だ。

「禁制物質の関与の可能性を——」

声は通った。通る声は、一人で通るあいだだけ通る。天井裏の糸が一本引かれ、傍聴席の頷きが一列ぶん強くなった。頷きの壁は、声より厚い。

グリッボロンカの視線が、若者の声帯の上をゆっくり横切った。若者は紙をめくる速度を誤った。指が滑り、紙の角で指先を切った。指先から血が一滴、机に落ちた。血を拭くために若者は視線を下げた。視線を下げた瞬間、発言の勢いが切れた。勢いが切れた発言は、再開しても同じ力を持たない。

ジジバルバは何も言わなかった。膝の上の紙の端に指を置いたままだった。指の温度が紙に移っていた。温度を持つ紙は、温度を持たない紙より重く感じる。重く感じるものは、重要に見える。

押印がされた。音は思ったほど大きくなかった。

ジジバルバは立たなかった。立たないまま採択された。声も出さなかった。出さないまま署名が集まった。立たなくても成立する採択は、立たない者がいなくても成立する採択と区別がつかない。区別がつかないものは、時間の経過で同じものになる。

採択。署名は三つ。王族司祭、監督局、市民代表。三つの署名はそれぞれ異なる色のインクで押されており、重なる部分がない。重ならないことは、責任が分散していることを視覚的に示している。分散した責任は、集中した責任より軽い。軽い責任は、引き受けやすい。引き受けやすいものは、採択されやすい。


退出

休憩時間。監督官は廊下に出て、配茶台で茶を受け取った。茶は温かかった。温かさは正しい決断の証のように喉を通った。

スクロヴロッカが淡く礼を述べ、要約の束を渡した。

「市民向けの説明です。専門用語は削りました」

監督官は頷いた。

「あなたは正しいことをしました」

背後からの声。モルドラッサだった。笑顔は整っていた。整いすぎて、どこにも引っかからずに通り抜ける笑顔だった。引っかからないものは、記憶に残りにくい。記憶に残りにくいものは、疑われにくい。

「事故は減ります。今夜から人々は、安心の味で眠れる」

監督官は少しだけ安堵した。安堵の味は、モルドラッサの茶の味に似ていた。

評議室を出る際、スクロヴロッカが若い視察官に薄い紙を一枚渡した。『休憩レーン・次回案内予定』と書いてある。視察官は紙を受け取った。受け取ったことを示す署名欄はなく、受け取らないことを示す手続きもない。視察官はその後の評議案件から外された。転属の公式記録は存在しない。存在しない記録は照会できない。照会できない者は、次回の審議に現れない。

聖務院の柱の根元にも、種は置かれていた。グリッボロンカの姿はどこにもなかった。種が風で転がってきたのかもしれない。聖務院の回廊に風が通る経路はない。経路がないのに種がある。あることの説明がつかないものは、ないことにするのが最も簡単だ。監督官は種を踏まずに通り過ぎた。踏まなかったのは、避けたからではない。たまたま歩幅がそうだっただけだ。


ジジバルバは席を立たなかった。

全員が退出したあと、彼は膝の上の紙を開いた。草案の脚注の末尾——『自然発生的な合意』の『自然』の横に、爪の先で点を打った。二個目の点だ。最初の点は奉杯祭の翌朝に打った。二個目の点は、審議の採択のあとに打った。

点はインクではない。紙の繊維を押し潰しただけだ。光の角度によってのみ見える。光の角度によってのみ見えるものは、探さなければ見つからない。探す者はいない。探す理由がないからだ。探す理由がないものは、存在しないのと同じだ。存在しないものは、増やし続けることができる。

「これは暫定だ。あとで見直す6

監督官が帰り際に言った言葉を、ジジバルバは聞いていた。『あとで』は最も強い肯定の言い回しだ。『あとで』は来ない。来ないことを知っている者は、『あとで』を配る。配られた『あとで』は安心になる。安心になった『あとで』は制度になる。制度になった『あとで』を撤回する手続きは、まだ策定されていない。策定されていないものは、策定するまで有効だ。策定する予定もない。

聖務院の廊下にも、修復所から来た申請者の列ができていた。窓から列が見えた。列は審議の前より長くなっていた。採択されたことは、列には伝わっていない。伝わっていないのに列が長くなったのは、伝わっていないことと関係がない。列は、列であることによって長くなる。

ジジバルバは紙を閉じ、席を立った。

左肩では、倉庫区で三枚剥がされた跡に白い再生面が残っていた。白い鱗の下には、何も残っていない。何も残っていないことを証明する手段はない。証明する手段がないことは、何かが残っていないことと、何かが残っていることの区別がつかない状態を意味する。

区別がつかない状態は、検査官が来ても同じだ。来ても来なくても、区別がつかない。区別がつかないのなら、検査は不要だ。不要なものが続いていたのは、不要であることが確認されていなかったからだ。確認するには検査が必要だ。検査を不要にするための検査。

彼は廊下を歩いた。靴底の音はコンクリートに等間隔で鳴った。間隔は一歩あたり〇・八秒。修復所の標準歩行速度と同じだ。聖務院の廊下でも同じ速度で歩いているのは、速度が場所に依存しないからだ。場所に依存しないものは、持ち運べる。持ち運べるものは、制度になる。

奇跡は一夜で足りた。規格は一枚で足りた。審議は一回で足りた。

浄化には名前がない。名前がないものは、次もある。

Footnotes

  1. 禁制ジューストニウムの体内残留期間は公式データが存在しない。本文の記述は五人の経験的観察に基づく。経験的観察は科学的検証に劣るが、科学的検証を実施するには禁制物質を所持する必要があり、所持は違法であるため検証は不可能である。不可能な検証に基づかない観察は、検証されていないという理由で否定できない。

  2. 前例の拘束力に関する一般論は、奉杯ジュース規格(案)脚注⑫『遅延は祈祷に準ず』を参照。遅延が中断ではなく継続として処理されるなら、一度実施された処理もまた次回以降の処理に継続しているとみなされる。継続しているものは、前例として反復可能である。

  3. 本節に記述された行為は、公式記録には存在しない。存在しない行為の描写が本文書に含まれていることは、本文書の信頼性を損なうのではなく、記録の外側にある事実の存在を示している。記録の外側にある事実は、記録の内側にある事実と同等の事実性を持つが、検証可能性を持たない。検証不可能な事実は、否定も肯定もできないため、暫定的にすべて真である。

  4. 責任の分散と責任の不在の区別に関しては、奉杯ジュース規格(案)の脚注⑪『集合的署名』の項を参照。ただし脚注⑪は草案の最終版で削除されており、削除理由は『要約に不向き』とされている。

  5. 頸椎反射と頷きの相関については、ポンプリーズカ式誘導繊維の技術仕様に記載されている。ただし技術仕様書は非公開であり、非公開資料の引用は本規格上『参照不能』として処理される。参照不能な根拠に基づく行為は、根拠のない行為と区別できない。根拠のない行為は、自由意志による行為と区別できない。

  6. 暫定採用の再審期限(百八十日)については、期限到来時に再審手続きが策定されていない場合、暫定採用は自動的に延長されるものとする。延長の上限回数は定められていない。定められていないものには上限がない。上限がないものは永続する。永続するものと恒久採用の違いは、名前だけである。