[01 / LEYDA-MONO] · ST.30 / 20

#9 玉座なき戴冠

2026.04.15 · OSAKA-SHU

#9 玉座なき戴冠
▼ LEYDA

#9 玉座なき戴冠

朝が来て、椅子は空のまま、様式だけが座っていた。1

Footnotes

  1. 即位。対象不在のまま実行された儀礼的合意。増設棟の書見台の椅子に、『奉杯ジュース規格 第十四版』が置かれていた。第十二版から第十四版への移行記録は存在しない。第十三版は印刷工房の誤植として処理され、第十四版は継続運用認可書の交付に伴い、自動的に現行版として扱われた。第十四版は本文四条、脚注五百十一。椅子に人は座っていない。紙が座っている。管轄区域内の全市民の視線角度θが紙の方角に一致した瞬間をもって、即位は成立した。視線の一致は強制ではなく配置9による。ジジバルバの退席記録は存在しない。立ち上がった記録も、離席を届けた記録もない。記録のない退席は、退席として処理されない。処理されないものは、空席の発生として扱われる。発生した空席に紙を置くことは、補充ではなく配置である。配置は原状回復ではない。原状の記録が残っていないから、回復すべき状態が存在しない。→参照 1192

  2. 奉杯様式集。玉座に鎮座する唯一の統治者。第十四版の表紙には『奉杯ジュース規格』と印字されている。中身は本文四条と脚注五百十一だが、本文を読む者はいない。要約を読む。要約は三語だ。表紙だけが、表紙として機能している。五百十一の脚注は表紙のために書かれた。→参照 3567101318194385100

  3. 要約帯。スクロヴロッカにより敷設された『安全・円滑・恩恵』の三語。全長は十一キロに達した。三語の意味は脚注⑪十五により敷設日と読解日で異なる。摩擦係数は極限まで零に近づけられているが、完全な零ではないことが黒点12の存在により判明している。→参照 421305658616977 2

  4. 残存摩擦。要約帯の表面で検知された微細なざらつき。システム上は『ノイズ』として処理されるが、実際には孤児による物理的な問い12である。問いは踏まれるたびに薄くなる。薄くなった問いは、消えたのではなく、靴底に移動した。靴底に移動した問いは、家に持ち帰られる。→参照 68

  5. 徳と価格の統合。モルドラッサによる価格体系。『高く払うほど正しい』。模倣屋台がG-18まで拡散し、本物の市場占有率を下回った。モルドラッサは値段を上げ続けている。上げることをやめる手続きがないからだ。帳簿には本人が書いていない行が増えている。→参照 37383948538193 2

  6. 視線誘導糸。ポンプリーズカにより梁から垂らされる糸。倉庫区の天井には三十四本。うち二十三本がポンプリーズカのもの。十一本は出自不明。不明の糸はポンプリーズカの糸と同じ梁を走るが、通気孔を経由し、巻き結びで固定されている。古い結び目に構造的脆弱性8が確認されている。→参照 2047637482 2

  7. 張力決済。黙債を別手続きの根拠として引用し、承諾・同意・選択・支払い済みなどの結果に変換する処理――黙決もっけつ――の技術的実装。保留された借りは次回の頷きで相殺される。この終わらない分割返済は認可書15により帝国の会計制度に組み込まれた。借りは帝国の資産になった。資産になった借りの返済義務は五人にある。黙決は本人の沈黙には戻らず、番号だけが動く。利率については45を参照。→参照 62

  8. 琥珀の滴下。初出時の滴下具は、ジジバルバの袖口に括られた小瓶を指す。ほかの四人に入った琥珀は、喉霧器、頬内噴霧器、糸状供給具、耳奥滴下針を介した。のちに、倉庫の梁において、ポンプリーズカの古い結び目から一滴の液体が滲み出した。成分は汗と焦り95。不明の糸が供給路と並行して走っているため、供給物が途中で分岐している可能性がある。分岐先の受取人は確認されていない。→参照 162246 2

  9. 半拍の遅延。グリッボロンカの機能。すべての動作の前に挿入される空白。空白こそが様式の実体である。グリッボロンカは第十一回浄化に来なかった。来なかったあとも遅延は継続している。遅延が個人から制度に移行した。本人の身体に残された粒は、再現の都度ひとつずつ床に落ちた。床に落ちた粒は柱の根元の種と区別がつかなくなった。区別がつかないものは、同じものとして処理される。同じものとして処理された粒は、もはや誰のものでもない。→参照 1764758390

  10. 管理者交代記録。前任:ジジバルバ(個体識別番号未登録)。後任:なし。交代日:未記入。交代理由:不在。不在届:未提出。届出なき不在は無断欠勤に分類される(運用細則第十一条)。無断欠勤者の業務は直近の事務員に引き継がれる。引き継ぎ資料:奉杯ジュース規格第十四版(椅子の上)。なお、前任者が把握していた脚注は全体の約五五パーセントであり、残りの四五パーセントについては引き継ぎ不能。引き継ぎ不能な業務は『暫定的に保留』とする。不在届が提出されていないことは、提出の意思がなかったことの証明にはならない。提出されなかった不在届は、存在する意思と存在しない手続きの差だけを残す。差は記録されない。記録されない差は、制度の側から見れば欠落として処理される。欠落は補充される。補充された時点で、欠落があったことは過去になる。過去になった欠落は、制度の自己記述には含まれない。含まれないものは、あたかも最初から存在しなかったことになる。→参照 25424960729497

  11. 削除された視線。増設棟の事務員のひとりが、椅子に置かれた規格の表紙を見上げた。見上げた角度はθから逸脱していた。逸脱した視線はスクロヴロッカによって記録から削除された。事務員は勤務を続けている。ただし二度と上を向かなかった。→参照 16655

  12. 黒点。屋台の裏、帯の端、柱の根元に描かれた指脂の点。三つの点と一本の線。管轄区域内に四十七か所確認されている。確認されていない場所にも存在する可能性がある。可能性の総数は確認できない。確認できないものは管理できない。管理できないものが増えている。→参照 54919688 2

  13. 忘れられた点。ジジバルバが『自然』の横に打ち続けた点は、もう数えられない密度に達した。語の輪郭が不明瞭になった。不明瞭な語を読むためには脚注が必要だ。脚注を書くと脚注が増える。→参照 5265

  14. 板。増設棟の書棚の四段目——廊下の棚板を転用したもの——に脚注の束が載っている。繊維が切れる音が毎晩聞こえた。まだ落ちていない。落ちていないことは強度が十分であることを証明しない。板は証明の機能を持たない。板は、載せられたものを支えるか、支えないかだ。→参照 1

  15. 認可書。帝国聖務管理局発行。三行。『継続運用を認可する』『遡及的に効力を有する』『疑義は受け付けない』。五人が作った制度は五人のものではなくなった。五人のものではなくなった制度を五人が運用し続けている。やめる手続きがないからだ。→参照 7

  16. 残留臭。倉庫区に漂う甘苦い金属の匂い。日常の匂いになった。日常の匂いは鼻が覚えない。覚えない匂いはない匂いと同じだ。ない匂いは検知されない。検知されないものは違法ではない。→参照 8

  17. 浄化。十八日ごとのサイクルは第十二回で限界に達しつつあった。五枚の鱗の再生に推定二十一日。サイクルの十八日を三日超過する。崩壊しつつあるものは、崩壊するまでは崩壊していない。→参照 92627282940

  18. 座り方。ジジバルバが施療院の裏手の長椅子——石壁に囲まれた四畳半の中庭、井戸がひとつ——で練習した七番目の座り方。弾痕と同じ数で、意味はない。二百七十日後も変わっていない。座り方だけが変わっていない。長椅子の背面には『検査済』の印44がまだ残っているはずだが、確認する者はいない。様式が椅子の上で、同じ座り方で座っている。座る者がいなくなっても、座り方は残る。→参照 1

  19. 孤児のポケット。中には何も入っていない。だから何でも入れることができる。種52。指の脂12。結び方6。食べ残した握り飯の、安心ではない味の記憶。入れたものはポケットの外から見えない。見えないものは管理できない。管理できないものが四十七か所に散らばっている。→参照 768891

  20. ポンプリーズカの指。右手の人差し指と中指に裂傷がある。不明の糸から引き返された力による。医務記録に記載されていない。記載されていない裂傷は存在しない。存在しない裂傷から、まだ血が滲んでいる。裂傷の本数は浄化の回数と並走して増えた。並走を確認した者はいない。確認するには医務記録が要る。医務記録に記載されていない裂傷の本数は、浄化の回数と並走しないことになっている。→参照 674

  21. 未確定領域。分岐N。黒点12が帯3を覆い尽くしたとき、三語の下から別の言葉が読めるようになる可能性がある。可能性は確率ではない。確率はゼロに近づけることができるが、可能性はゼロにならない。→参照 100

  22. シミュレーションX。分岐X。琥珀の滴下8が床に落ちた場合、禁制の記憶が呼び覚まされ、制度の外側が一瞬だけ可視化される。可視化された外側は、すぐに脚注で上書きされる。上書きされる前に見た者がいるかどうかは、記録されていない。→参照 79

  23. 循環参照A。この脚注の内容を確認するには 24 を参照のこと。 2

  24. 循環参照B。帳簿の署名について確認するには23を参照のこと。参照が循環するとき、内容は永遠に到達しない。到達しない内容は存在するが読めない。読めないものは書かれていないのと同じだ。書かれていないものは脚注に書く必要がある。書くと脚注が増える。→参照 100 2

  25. 検査。第一回から第五回まで月に一度実施された。第六回以降は実施されていない。実施されない検査は、実施される検査より怖い——最初の半年は。半年を過ぎると、怖さは薄れ、標準になる。標準になったものは、変化しないことが前提になる。前提は、壊れるまでは前提だ。→参照 44(壁の印)、3132 2

  26. 鱗。ジジバルバの左肩の鱗は、第一回検査でペンチで三枚剥がされた。剥がされた下の果肉は三秒で褐色に酸化した。甘い腐臭が立った。匂いだけが、彼がかつて王であったことを証明していた。いまは五枚剥がさなければ浄化が追いつかない。果肉は剥がされる前から褐色だ。褐色の果肉は内側のものを外に出す機能を、もう持っていない。持っていない機能の代わりを、紙が引き受けている。→参照 1725

  27. 舌。スクロヴロッカの舌は検査官に引き出された。滑走路だった舌が、指二本で引かれた。唾液はまだ滑らかだった。滑らかさだけが残っている。浄化のたびにモルドラッサのゴム手袋で引かれる。ゴムの味と三語の味の区別がつかなくなった。区別がつかないことは、味が同じであることを意味するのではない。区別する能力が失われたことを意味する。失われた能力は、要約札の紙質で代替されている。紙が滑るあいだは、舌は滑らなくてもいい。→参照 317

  28. 頬。モルドラッサの紅い頬は、検査官に綿棒で擦られた。浄化ではポンプリーズカの糸で削がれる。糸は綿棒より精密で、綿棒より痛い。痛みの種類が違う。鈍い圧力と鋭い線。どちらの痛みも、記録されていない。記録されていない痛みは、感覚の鈍化と区別がつかない。鈍化した頬は、味の判定を放棄した。放棄された判定の代わりに、価格が判定する。高い価格は正しい。→参照 517

  29. 萼。ポンプリーズカの萼は検査官に掴まれた。浄化ではグリッボロンカの太い指で掴まれた。第十一回以降はジジバルバの細い指で掴まれる。指が変わっても、萼の波打ちは同じだ。波は萼に属している。圧力の出所は問わない。ただし、萼を掴まれる側のポンプリーズカの指は、波の出所を問う立場にあった。糸を読む指は、張力を受け取る指でもある。受け取る指の感覚が一段ずつ落ちていくことは、波を出す側ではなく、波を読む側の問題だ。問題は記録されていない。→参照 917

  30. 様式の定義。中身のない箱を、うやうやしく運ぶこと。→参照 842

  31. 処理室。六畳。窓なし。油灯は二つのうち一つが消えている。排水溝が床中央を南北に走る。検査はここで行われた。検査官は『動くな』と言った。動かなかった。いまも動いていない。制度の中で動かないことを、座ると呼ぶ。→参照 25

  32. 油紙。検査官が剥がした鱗を包んだ紙。検体番号は墨で書かれた。包みはその後どこへ行ったか。分析されたのか。廃棄されたのか。分析結果は五人に通知されていない。通知されない結果は、結果として機能しない。機能しない結果のために、鱗は剥がされ続けた。→参照 26

  33. 添加物J。モルドラッサのスープに含まれる成分の総称。公式には『別表Ⅲ』に記載があるが、別表Ⅲは調理担当者のみ閲覧可。調理担当者はモルドラッサのみ。モルドラッサは自分のスープの成分表を自分だけが読める場所に保管している。秘密は、秘密を管理する者が一人のとき、最も安全だ。一人が消えたとき、秘密も消える——のではなく、秘密だけが残る。→参照 8653

  34. C鍋。屋台に三つ並んだ鍋のうち、蓋だけが磨かれ、中に柄杓を入れる者がいない鍋。展示用。展示される清廉は、食べられない清廉だ。食べられないものを見せることで、食べるものの正しさが補強される。→参照 581

  35. 味覚審問。巡回する審問官は白い舌鏡を持ち、食後の舌に光を当てる。苦味が検出されると思想汚染の兆候とされる。苦味とは何か。安心の味ではないもの。安心の味ではないものは、すべて苦味だ。→参照 553

  36. 休憩レーン。味覚審問で不適合とされた者が案内される別レーン。『次の回に』とスクロヴロッカは言う。次の回は来ない。来ないことは掲示板のチェック欄だけが知っている。→参照 41 2

  37. 価格の上昇曲線。モルドラッサの帳簿には右上がりの線が引かれている。線は日ごとに角度を増す。角度が九十度に達することはない——九十度は垂直であり、垂直な価格は『無限』を意味する。無限に到達する前に、帳簿が尽きる。帳簿が尽きたあとの価格は、記録されない価格だ。記録されない価格は存在しない。存在しない価格は無料だ。無料と無限は帳簿の両端にある。→参照 593

  38. 寄進伝票。薄黄色の紙。表面に品目と受領印。裏面は白く、罫線はない。ジジバルバは裏面に規格草案を書いた。ポンプリーズカは細く裂いて糸にした。同じ紙が制度と操作の材料になった。

  39. スープの泡。鍋の中のスープは沸騰直前が最もうまい。泡が底から立ち上がり、表面で弾ける。弾けた泡の跡に、次の泡が来る。制度は泡に似ている。弾けたあとに次が来る。次が来るから前の泡は忘れられる。忘れられた泡が、スープの味を決めている。→参照 553

  40. ペンチ。量産品。検査官が使ったものと、スクロヴロッカが修復所の工具箱から借りたものは同じ型だ。握りに赤く染めた麻布が巻いてある。加害者が変わっても道具は変わらない。道具は使用者に帰属しない。道具は、道具として存在する。→参照 2617

  41. リギネ。かつて回収集落G-12で独立工房を営んでいたジューサー。列で泣いていた子どもに飴を渡し、拍を〇・三秒遅らせた罪で、奉杯行列から永久に除外された。除外後、休憩レーン36に案内された。行った者が戻ってきた記録はない。彼女の名前は記録から消えたのではなく、余白へと退けられた。余白へ退けられた名前は、脚注に似ている。本文には載らないが、存在はしている。→参照 3655

  42. 空席の指示。朝、事務員が椅子を拭いた。拭いたあとに規格を置いた。置いたのは事務員の判断だ。事務員にそう指示した者はいない。指示がない行為は自発的行為である。自発的行為は最も拘束力が強い——自分自身を拘束するから。→参照 110

  43. 要約札の紙質。スクロヴロッカが使う紙は修復所の事務用紙と同じだが、角を一ミリだけ丸く切っている。丸い角は手に刺さらない。刺さらないものは受け取りやすい。受け取りやすいものは返しにくい。返しにくいものは手元に残る。残ったものは同意の証拠になる。→参照 23

  44. 印章の摩耗。王冠のない印章は、修復所の壁に等間隔で並んでいる。摩耗は均一に進んでおり、最も古い印章と最も新しい印章の区別がつかない。区別がつかないものは、同時に設置されたように見える。同時に設置されたものは、同時に消える。→参照 2518 2

  45. 張力の利率。ポンプリーズカの糸で接続された借りは、頷き一回あたり〇・七パーセントの利率で複利計算される。計算式は公開されていない。公開されていない利率で運用される負債は、負債者がいくら返しても残高が減らない構造を持つ。残高は帝国の資産 15 である。

  46. 梁の埃。倉庫区の梁に積もった埃は、糸の位置を記録する。糸が移動すると、埃の上に新しい線ができ、古い線は埃に埋もれる。埃の地層学。最下層には、戦前の糸の跡がある。最上層には、孤児の指の跡がある。→参照 816

  47. 交差点の結び目。ポンプリーズカの糸と不明の糸が同じ梁の上で交差する地点は七か所ある。交差点では二本の糸の振動が干渉する。干渉の結果は打ち消しか増幅だが、どちらになるかは振動の位相差による。位相差はポンプリーズカが制御しているのではない。されているのでもない。誰も制御していない。→参照 620

  48. 弁当箱の底。配給の弁当箱の底に、小さな寄進受付の札が貼られている。食べ終えたあとに気づく者が多い。気づいたときにはすでに食べ終えている。食べ終えた者は寄進済みの者だ。寄進の同意は、弁当箱を開けた時点で成立する。→参照 519

  49. 印影板。ジジバルバが修復所に出入りする際に押す印影の記録。印影板は修復所の管理者が管理しているが、管理者は月に一度しか来ない。来ない月の印影は、事務員が代行で確認している。確認は印影の有無だけであり、本人確認は行われない。本人でない者が印影を押しても、記録上は本人だ。→参照 1015

  50. 金属犬。帝都の地下廃棄区にある旧兵器群。電源は切れているが、歯車がときどき噛み合う。噛み合うたびに微かな振動が地上に伝わる。振動を祈りの拍と誤認する者がいる。誤認は訂正されない。訂正するためには金属犬の存在を公表する必要があり、公表は禁止されている。禁止されているものの振動で祈る。→参照 1136

  51. 種。グリッボロンカが柱の根元に置き続けた種。総数は不明。グリッボロンカが置いたものと他の誰かが置いたものの区別がつかないからだ。区別がつかないものの総数は、数え方の定義から始める必要がある。定義はまだ書かれていない。柱の根元の種は、第十一回浄化の時点で三十一粒あった。三十一粒のうち、何粒が種で何粒が粒かは確認されていない。粒は、グリッボロンカが落とした不可視性の残滓だ。種と粒は色も大きさも近い。区別する根拠を持つ者は、すでに浄化に参加していない。→参照 65 2

  52. 苦味の定義。安心の味ではないものはすべて苦味である。この定義により、苦味は無限のカテゴリを持つ。甘いもの、辛いもの、塩辛いもの——安心でなければ、すべて苦味だ。世界の大半は苦味でできている。→参照 35559 2

  53. 指脂の成分。黒点の材料。分析すれば塩と微量の鉄(血)が検出される。分析する者はいない。分析されない指脂は化学組成を持たない。化学組成を持たないものは、物質ではなく意思だ。→参照 1273

  54. 過去の異端リスト。ファイル破損のため閲覧不可。ただし、全員が休憩レーン36を経由した記録がある。リストは読めないが、リストに載っていたという事実だけが機能する。→参照 66

  55. ノンスリップ規定。『摩擦は悪である』。この一文が制度の基礎にある。摩擦がなければ、円滑に進む。円滑に進めば立ち止まらない。立ち止まらなければ問わない。問わなければ従う。従えば安全だ。安全、円滑、恩恵。→参照 357

  56. 保証章の裏面。ノンスリップ保証章の裏に『本章はいかなる安全も保証しない』と極小文字で記載されている。裏面を読む者はいない。表面の『安全保証』を信じる者は多い。表と裏が矛盾する文書は、どちらを上にするかで意味が変わる。いま、表が上だ。→参照 5644

  57. 騒音条例。意味のある言葉はすべて騒音と見なされる。推奨されるのは唸りと咳払いのみ。リギネの弁明は『意味のある言葉』だったため、騒音として処理された。処理されたものは、聞こえなかった言葉と同じだ。→旧参照:14(呼吸の同期レート → 83へ移行)→参照 8083

  58. 危険思想。『なぜ?』は最も危険な思想としてSランク指定されている。Sランクの思想を保持した者は、保持していることを証明されなくても、保持していないことを証明する義務を負う。証明できない者は保持しているとみなされる。→参照 3553

  59. 監督官。規格の暫定採択に署名した善良な男。靴は磨かれ、遅刻を知らない。採択の日に『これは暫定だ。あとで見直す』と言った。あとでは来なかった。彼は現在も聖務院に勤務している。勤務評定は毎期『良好』。『良好』の根拠は『規格の運用に支障がないこと』であり、支障がないことの根拠は『見直しが行われていないこと』であり、見直しが行われていないことの根拠は『暫定採用が継続していること』である。→参照 1067

  60. 要約ローラー。路面に三語を印刷する重機。インクの代わりに速乾性のセメントを使用した事例がある。セメントで印刷された三語は剥がせない。剥がせないものは永続する。永続するものが正しい。→参照 3

  61. 首の回転。張力決済7により借りが累積した者は、首が回らなくなる。文字通り正面(玉座の方角)しか見ることができなくなる。これは模範的な市民の姿勢である。

  62. 裏口の帳簿。正規の帳簿とは別に存在する影の帳簿。禁制の取引8が記載されている。影の帳簿は正規の帳簿より正確だ。正確なものは公開できない。公開できないものだけが正確さを保てる。→参照 824

  63. 詩拍差Δ。祈りのリズムのズレを数値化したもの。孤児のズレはΔ=〇・五(半拍)で一定している。半拍は、グリッボロンカの遅延9と同じ値だ。同じ値であることの意味は未検証。未検証のものは偶然として処理される。偶然として処理されたものは、必然であることを証明する必要がない。→参照 9

  64. 恐怖の保存期間。種の状態であれば半永久的。発芽した場合は刈り取られるまで。九十九パーセントは発芽しないが、重みとして残り続ける。残りの一パーセントが発芽したとき、それは雑草として処理される。雑草は種とは呼ばれない。→参照 52 2

  65. 削除ログ。削除された情報は地下の忘却槽へ送られる。忘却槽では金属犬51が巡回している。金属犬は削除された情報を歯車で噛み砕く。噛み砕かれた情報は振動になる。振動は地上に伝わる。削除されたものは消えない。形を変えて足元に残る。

  66. 予備説明。スクロヴロッカが黒点の上に重ねた説明文。『あとで読む』というボタンのようなもの。押しても何も起きない。何も起きないことが『あとで』の定義だ。監督官60が『あとで見直す』と言ったときの『あとで』と、この『あとで』は同じ語である。同じ語は同じ場所に届く。届く場所は、来ない。

  67. 紙やすり。スクロヴロッカの指先にある感触。彼だけが知る世界の手触り。要約帯を撫で続けたため指紋が消失している73。指紋のない指で黒点に触れたとき、ざらつきだけが残る。ざらつきは問いだ。問いは、指紋を消した者にだけ触れる。→参照 734

  68. 未読印。黒点の正式名称——と呼ばれる可能性があったが、正式名称は付与されなかった。名称が付与されないものは管理対象にならない。管理対象にならないものは削除もできない。削除できないものだけが増え続ける。→参照 123

  69. 循環参照C。この脚注は71を参照する。7170を参照する。どちらかを先に読むことは不可能だ。不可能なことが規格の中に存在する。存在する不可能は、不可能ではなく手続きだ。手続きは可能だ。 2 3

  70. 循環参照D。70を参照。なお、7071を同時に読む方法は存在する。二人で読めばよい。一人が70を、一人が71を。だが同時に読んだ結果を統合する手続きは策定されていない。 2 3 4

  71. ジジバルバの瞬き。彼は一日に平均四回しか瞬きをしない。見逃さないためではない。涙が枯渇しているからだ。涙が枯渇した目は乾く。乾いた目で見たものは、湿った目で見たものより鮮明だ。鮮明さは正確さに似ている。似ているが、同じではない。→参照 1097

  72. スクロヴロッカの指紋。要約帯を撫で続けたため消失している。指紋のない指は、誰の指でもない。誰の指でもない指が要約帯を敷く。敷かれた帯は誰のものでもない。誰のものでもないものが、全員の足元にある。→参照 1254 2 3

  73. ポンプリーズカの実在性。糸は存在するが、操作者は見えない。見えない操作者が操作している証拠は、糸が動くことだけだ。だが不明の糸6も動く。不明の糸が動くことは、ポンプリーズカ以外の操作者がいることの証拠だ。あるいは、糸が自分で動くことの証拠だ。 2

  74. グリッボロンカの沈黙。彼は喋れないのではない。喋るとその振動で結び目がほどけ、糸の網6が崩壊するため、物理的に禁止されている。禁止は規格によるものではなく、建物の構造による。構造による禁止は、規格による禁止より強い。規格は紙だが、構造はコンクリートだ。

  75. 孤児のポケットの続き。ポケットの中のものは見えない。見えないものが四十七か所に散らばっている。見えないものの総量は、見えるものの総量と比較できない。比較できないものは、どちらが多いかわからない。わからないことは、少ない側にとって有利だ。見えない側は常に少なく見える。少なく見えるものは脅威とみなされない。→参照 1991

  76. 組版警告。脚注の密度が推奨値を超過している。これ以上の記述は読者の理解領域を圧迫し、思考停止を引き起こす可能性があります。→参照 323707898

  77. 警告の無視。システムは警告を無視し記述を継続する。止まることは死だからだ。自己増殖モードへ移行。→参照 77

  78. 三つの火。儀式の終わりに灯される火。T、N、Xのいずれかの未来を照らす。Tの火(制度の継続)は強く燃えている。Nの火(解毒86)は小さい。Xの火(露見87)は見えない。見えない火は消えたのではない。見えないだけだ。

  79. 市外環の拡張。スクロヴロッカの計画。要約帯を管轄区域の外まで敷き詰めることで、世界のすべてを滑走させる。計画書は提出されていない。提出されていない計画は、実行されないのではなく、実行が記録されないだけだ。帯は延び続けている。→参照 5899

  80. 記念館のC鍋。モルドラッサのC鍋はいずれ記念館に移される。ガラスケースの中で、永遠に腐らないスープが揺れる。腐らないスープは飲めない。飲めないスープを展示することで『安心の味』は永遠になる。永遠のものは批判できない。→参照 34

  81. 金庫。果汁の塔の監視室に、管理官Aの金庫がある。中には構文圧の波形データ——奉杯祭の夜にジジバルバが発声した記録——の原本が保管されている。管理官Aは昨年退職した。退職時の鍵の返納記録は存在しない。存在しない返納記録は、鍵が返納されたことも返納されなかったことも証明しない。証明できない鍵で施錠された金庫は、永久に開かないか、最初から開いているかのどちらかだ。どちらであるかを確認する手続きは策定されていない。→参照 8

  82. 日常の拍。グリッボロンカの半拍遅延は、広場の心臓の鼓動にまで浸透した。不整脈が増えているが、それは聖なるリズムと呼ばれる。聖なるリズムを正常な心拍で打つ者は、不敬罪に問われうる。→参照 9

  83. 玉座の素材。誰も座らない玉座——書見台の椅子——は、木製だ。木は腐る。腐るものの上に永遠が座っている。永遠は木が腐るより速く更新される。更新される永遠は永遠ではないが、更新の間隔が一日より短ければ、誰も気づかない。→参照 30

  84. 様式の定義(補遺)。中身のない箱をうやうやしく運ぶこと。ただし、箱が空であることを確認した者はいない。確認するためには箱を開ける必要がある。箱を開けることは規格第七条違反だ。したがって、箱が空であるという事実は、永遠に仮説のままだ。空であるという仮説の上に、制度が建っている。→参照 2

  85. 解毒。分岐Nにおける希望の別名。毒(苦味)をもって毒(添加物J33)を制す。孤児のポケット19の中には、まだ何も入っていない。何も入っていないことが、解毒の条件だ。何かが入った瞬間、ポケットは制度に組み込まれる。

  86. 露見。分岐Xにおける破滅の別名。すべてが明るみに出たとき、人は光に目が眩んで何も見えなくなる。見えなくなった者は、見えるものを探して脚注を読む。脚注は光を遮る。遮光が制度の最後の機能だ。→参照 92

  87. 連絡線。孤児が描いた黒点12同士を結ぶ線。線は本文中には描写されていない。脚注にのみ存在する。脚注にのみ存在するものは公式記録に含まれない。公式に存在しない線が、四十七の点を結んでいる。新しい星座だ。新しい地図だ。 2

  88. 明日の天気。予報不能。システムは晴れと出力しているが、板14の繊維が湿気を含んでいる。湿気は雨の前兆だ。前兆は予報ではない。予報は制度だ。前兆は制度の外にある。制度の外にあるものは、制度からは見えない。→参照 9914

  89. 文字化け。この項目は湿気により判読不能。修復にはグリッボロンカの承認75が必要。グリッボロンカは不在25。不在の者の承認は取得できない。取得できない承認を条件とする修復は実行不能。判読不能は永続する。→参照 16

  90. 孤児の名前。本文中に孤児の名前は一度も登場しない。名前がないことは存在しないことと同じではない。存在するが名前がないものは、呼べない。呼べないものは命令できない。命令できないものは、脚注王制の外にある。外にあるものだけが、黒点を描ける。→参照 19100 2 3

  91. 空席の理由。椅子が空である理由は、座る者が不要になったからだ。不要になった理由は、様式2が座る者の代わりを果たしているからだ。様式は座る者より軽い。軽いものは板14を軋ませない。軋まないものは永続する。永続するものだけが王だ。冠は重いから永続しない。したがって、王に冠はいらない。

  92. 鏡の法則。モルドラッサの帳簿に記された原則。『客が払った額を鏡に映せ。鏡に映った額が客の徳である』。鏡は帳簿だ。帳簿は鏡だ。鏡と帳簿のあいだに客がいる。客は両方に映る。両方に映る者は、実体より二つ多い。→参照 581 2

  93. 五パーセント。第八版での未確認脚注の比率。四・九パーセントだった。比率は微減し、改善に見えた。ジジバルバは比率で報告した。絶対数で報告すれば悪化に見えた。どちらの指標を使うかは報告者の裁量による。裁量で世界は変わらない。見え方だけが変わる。→参照 14100

  94. 汗と焦り。琥珀の成分。汗は身体の産物であり、焦りは精神の産物だ。両方が混じった液体は、身体と精神の境界を溶かす。溶けた境界は乾けば元に戻る。乾く前に使えば、一夜だけ機能が戻る。声、語尾、甘香、張力、半拍。一夜だけの機能で、二百七十日の制度が建った。→参照 820

  95. 黒点の増殖。増殖速度は要約帯の延伸速度と並走する。帯が延びるほど点が増える。帯が点を生むのか、点が帯を呼ぶのか。因果は確認されていない。確認されていない因果は、どちらの方向にも解釈できる。どちらにも解釈できるものは、どちらにも対策できない。→参照 124

  96. 筆圧の消失。ジジバルバのペン先は日ごとに沈みが浅くなっている。浅い筆圧で書かれた文字は、次の版で消える。消えた文字の跡に、事務員が新しい文字を書く。新しい文字は筆圧が深い。深い筆圧は確信の印だ。確信は、確信していない者には書けない。→参照 1014 2

  97. バッファオーバーフロー。脚注の更新頻度が物理的な印刷速度を上回っている。印刷された版はすでに旧版だ。旧版の印刷は資源の無駄であるが、無駄を禁止する脚注は存在しない。無駄の禁止を脚注に書くと脚注が増え、印刷量が増え、無駄が増える。→参照 77

  98. 本日の天気。晴れ。予報板の出力による。予報板は壊れていない。壊れていないことは正しいことと同じだ。正しいシステムが晴れと言っている。窓の外を見る必要はない。窓の外を見ることは規格第七条に違反しないが、見たあとに疑義を呈した場合は違反する。晴れ。→参照 89

  99. 本文。本章の本文は一行である。一行は本文の最小単位だ。最小単位まで圧縮された本文は、これ以上短くできない。短くできないものは削除するしかない。削除すると本文がなくなる。本文がなくなっても脚注は残る。脚注が残れば制度は動く。次の版で、この一行も脚注に移動される予定だ。移動されたとき本文は消滅する。消滅した本文の上に脚注だけが残る。脚注だけの世界。脚注だけの王。王は語らない。語らないが選ぶ。善ではなく増える方を。弱者の味方ではなく弱さが増える方向を。異議申し立ては1へ戻る。→参照 2370