[01 / LEYDA-MONO] · ST.10 / 20
#1 暁の澱、重力について
#1 暁の澱、重力について
大坂州南区の朝は、ほかのどの州の朝とも異なる規格で到来する。これは比喩ではない。
『泡礁帯気象便覧(FY198年改訂版)』巻頭解題
重力について
第4泡礁帯の朝は、重力から来る。
これは比喩ではない。泡礁帯における朝の到来は、光よりも先に、重力定数の微かな揺らぎとして観測される。泡膜を覆う呼吸周期が暁の直前に一度だけ深く吸い込まれ、吸い込まれた空気の分だけ、泡界内部の重力が〇・〇〇三%増す。〇・〇〇三%は、人間の感覚では検知できない。検知できないことが、朝の始まりの定義である。1
修繕士ミルダは、この増減を足裏で聴く。聴くという言い方は比喩のように見えて比喩ではない——足の裏の皮膚には、鱗の欠けた間隙にわずかな受容体が分布しており、これが重力差分を振動として知覚するのだと、第4泡礁帯の医療便覧には記載されている。記載されているのは便覧の第三巻だが、第三巻は夢酔いの影響で印刷インクが定着せず、文字が月ごとに少しずつ薄くなっている。三年前には読めた段落が、いまは半分読めない。再刷予算は未承認である。
「…また揺すられとる」
独り言は、誰にも聞かれなかった。聞かれなかったが、ガムソールを浸す湿気は普段より半拍重かった。半拍の重さは便覧に記載されていないが、ミルダの左の足裏と右の足裏とで、わずかに違っていた。
業務日誌抜粋
FY201年8月某日・第4班・業務開始前記録
詰所の扉は、蝶番が一つ脱落しているため、開閉時に四十五度の角度で下方に沈む。沈んだ扉を押し上げるのに〇・七秒かかる。この〇・七秒は、FY199年の改修予算申請書で「要是正」と記載された項目である。申請はまだ承認されていない。承認担当官は夢酔いで三ヶ月出勤していない。大坂州土木局の統計によれば、同様に長期欠勤中の決裁担当官は九十四名——この数値もまた、欠勤中の担当官の決裁を待って確定するため、暫定値のまま運用されている。
「周期は三割欠損。囁きも濃い……今日は骨が折れるで」
班長フレゴは、象眼細工の義眼を机に置いたまま、眼窩の闇を晒して呟いた。真鍮の歯車が軌条の上でじりじりと鳴いている。この鳴き声を止めるための注油は、推奨される油の種類が三つあり、三つのうち二つは供給停止、一つは帝国経由で届くが夢酔いで実体化が不安定なため使えない。結果としてフレゴは、三年前に買った一缶を希釈して使い続けている。希釈の比率は日誌に記載されているが、日誌を読んでいるのはフレゴだけだ。
「昨日より悪い。まるで病床や」
ミルダが脱ぎ捨てた外套から、湿った空気が重たく滑り落ちた。
第4班に在るのは三つの影のみ。班長フレゴ、修繕士ミルダ、そして末席の新人——「流民タワシ(見習い修繕士)」と配属通達に記載されている。姓は記載されていない。流民であるため姓がないのか、記載が省略されただけなのかは、通達からは判断できない。判断のための照会書式は用意されていないため、照会は三年間行われていない。
新人は今日も、聖典を抱えるように記録板を胸に抱いている。彼の描く文字は、カロティア型の滴吹垂書式の美しさには程遠く、強い癖が罫線からはみ出している。標準罫線幅は一・二ミリメートル、新人の筆跡は平均一・七ミリ——〇・五ミリの超過は「矯正対象」に分類されるが、矯正教材は予算削減で発注停止中である。矯正されないまま繰り返される筆跡は、やがて第4班の書式の一部として黙認されていた。
「昨日の繕いも無駄やったか」
ミルダの嘆息に、フレゴは乾いた笑い声を漏らす。
「サトーさんとこの桃樹から搾った涙、あれはええもんやったが、足りひん。帝国から来るんは夢酔いまみれや」
夢酔い。アプリア帝国から伝染する、甘美なる麻痺。物資の在庫すらも夢の論理で揺らぎ、届くはずの荷物は届かない。
「行政へは奏上済みや。返事はけえへんやろうけど」
フレゴの義眼が苛立ちを孕んで回転する。
「わてら三人、これ以上は限界やで」
夢酔いの話題が途切れたとき、新人が、記録板を胸に抱えたまま、小さく口を開いた。
「……きび、しい?」
空間に落とされた一語は、流民特有の、調律が狂った発音。この揺らぎは、泡界の病的な呼吸音より、ずっと不安定で頼りない。
ミルダはため息を漏らす。
「せやな。でも新人、地味な拍ほど、あとあと効いてくるんやで」
新人は俯いたまま、肯定の意を示す。彼の影は、本体が動きを止めた刹那ののち、粘度の高い液体の中で藻掻くように、一拍遅れて揺れた。2
霧の道
午前のうちに、三つの亀裂を塞いだ。午後の報告は後回しにして、ミルダは新人を連れて外に出た。北のはずれの廃屋で感圧板が異常を記録したのを、フレゴが義眼の痙攣と一緒に押し付けてきたのだ。
霧は濡れていた。
濡れているというのは、空気が濡れているということだ。吸い込むと舌の上に水の味が残る。道は舗装されていない区画に入っていて、歩くたびにガムソールが泥を噛んだ。作業着の袖は、霧に触れた部分から色が濃くなっていき、前腕のあたりで完全に湿って肌に貼りついた。
背後で新人の影が、半拍遅れてついてきた。ミルダは視界の端でそれを感じていたが、振り返らなかった。振り返ると、新人は自分の影が遅れていることに気づく。気づかれないほうが、歩きやすい。
右手の小さな水たまりに、空のひび割れが映っていた。空というより、空の代わりに置かれているものだった。本当の空はこの泡礁帯からは見えない。
湿った板塀の前を通り、乾いた板塀の前を通り、また湿った板塀の前を通った。三枚の板塀は、全部同じ家のものではない。異なる家の板塀が三枚続いているだけだった。三枚の境目で、泥の色が少しずつ違っていた。
廃屋が見えたとき、ミルダは一度だけ立ち止まった。立ち止まった理由は、膝の裏に冷たいものが触れた気がしたからだ。霧の粒だった。
廃屋へ近づくにつれ、泡の呼吸音——あの耳障りな空間のざらつき——が、不自然なほどに凪いでいった。
「……誰ぞ寝とるな」
漂着者
蝶番の死んだ扉の隙間から、土色の光が粘液のように垂れ込んでいる。舞い落ちる塵が時間を可視化するその只中、ひとりの娘が落ちていた。
色素の薄い肌。浅く、しかし確かな呼吸。
彼女は琥珀に封じ込められた昆虫のごとく静止しながら、その喉の奥で工作機械の駆動音にも似た、無機質ないびきを上げていた。
「なんや、このねーちゃん。果国人か」
鈍く光る黄金の首飾り、果皮製の服。そして傍らに転がる飴色の眼鏡。それらすべてが、彼女がここではない遠方の王都から流れ着いた漂着物であることを語っていた。
ミルダは板敷きに片膝をついた。なぜ膝をついたのか、自分でもすぐには分からなかった。膝の裏に、さっきと同じ冷たさが触れた。今度は霧の粒ではなく、板の隙間から滲む地下水だった。地下水の温度は、廃屋の外気温より二度低い。二度の差は、感圧板の較正の誤差範囲内である——本来なら異常として記録されるべき差が、誤差として処理されてしまう。
ミルダは記録しようとしなかった。
娘の周囲だけ、薄膜の揺らぎは完全に止まっていた。都市は彼女に媚びるように、あるいは畏れるように、静まり返っていた。
感圧板の記録値が通常の二・三倍を示したのは、この娘のためだ。二・三倍は、複数の先行事例と比較すると「人間が一人そこにいる」に相当する。ただし人間が一人そこにいた場合、感圧板は通常通り反応するはずで、異常として記録される理由はない。異常として記録されたということは、通常の一人ではない一人がそこにいることを意味する。
ミルダは低く呟く。
「ほっとかれへん。連れてくで」
帰路、泡は口を噤む
ミルダが娘を抱き上げた瞬間、周囲の泡膜は一斉に沈黙した。凪いだ空気が、産毛を撫でるように柔らかく流れる。
娘の体は、見かけより重かった。
足裏の受容体が、彼女を抱き上げた瞬間に、地面との接触圧が〇・〇〇三%増したことを告げていた。〇・〇〇三%——それは朝の定義と同じ値だった。
朝が来る時の増加分と、この娘が現れた時の増加分が、同じ値である。これは偶然ではない、とミルダは思った。思ったが、言葉にはしなかった。言葉にすると、誰かに説明する必要がある。説明する手段は、書類である。書類には、足裏の受容体の数値を記入する欄はない。
「落ち着いたんやな」
彼女は理解した。この娘こそが均衡を揺るがし、同時に鎮める“重石”だと。彼女が息を吐く限り、この不安定な都市は、仮初めの安寧を得るのだろう。
稀に、そのような特異点としての人間が存在する。ただしその存在は、台帳に記載された場合にのみ正式な効力を持つ。この娘は、まだ台帳に記載されていない。3
帰り道、ミルダは後ろを振り返らなかった。新人の影の遅れも、もう確かめなかった。腕の中の娘の重みだけが、一定のリズムで彼女の歩調に合わせていた。
作業着の袖は、いつの間にか乾きはじめていた。
Footnotes
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この定義は『泡礁帯気象便覧』FY198年改訂版による暫定規定である。本定義を日々の運用に使用しているのは第4泡礁帯の修繕士数名のみで、大坂州土木局の公式運用指針には採用されていない。公式には採用されていない定義によって、朝が始まっている。 ↩
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影の遅延は、本時点の記録では流民特有の所作として扱われている。後日、この遅延が別の事象に接続することを知るのは、読者だけである。執筆時点の本文はそれを予告していない——予告は読後に遡及的に成立する。 ↩
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本件の詳細は、別の系統の記録——すなわち事案記録——に接続する予定だが、その記録は現在検閲削除項目に該当するため、ここでは記載を控える。削除された項目が存在したという事実は、削除記録として残る。本断章は、削除記録ではない。 ↩