[01 / LEYDA-MONO] · ST.11 / 20
#2 欠損する果実
#2 欠損する果実
食わせろ。確率論の林檎はいらない。
実存的飢餓に関する覚書 ――夢酔い患者の臨床記録 第4巻
実体化段階について
果実が「ある」と記録されるまでには、複数の段階がある。
まず樹に実がなる。次にそれがもがれる。もがれたものは箱に詰められる。箱は市場に出る。市場で値が付き、買われて家に持ち帰られ、皮をむかれ、食べられる——このあいだ、果実は一貫して「ある」。ある、と台帳は言う。
ただし台帳が言うところの「ある」と、食べる側の舌がいう「ある」とのあいだには、若干の時差がある。果国中央学士院は、この時差を実体化段階と呼んでいた。段階は五つある。もがられた果実が五つの段階をすべて通過したとき、それは実体化完了となる。通過しないまま消費された果実は、記録上は完了しているが、実体としては完了していない。実体として完了していない果実は、食べても満足しない。1
夢酔い侵食下では、この五段階のうち第三段階と第四段階のあいだで果実が詰まる。詰まるとは、物理的に止まるということではない。段階を越える手続きが、完了したとも未完了とも確定しないまま、両方の状態で記録される——という意味だ。
ミルダは、この学術用語を知らない。知らないが、指先で分かっていた。
湿り気の箱
娘が瞼を持ち上げた時、天井の皮膜は凪いでいた。
詰所の天井はよく手入れされた機械仕掛けの心臓のように、一定の律動で部屋の静寂を濾過している。つい数日前まで、都市の景色が不整脈のごとく痙攣し、あらゆる時間が撹拌されていた事実を、今の安定からは想像もできない。
機械音のようないびきを止め、娘が目を開ける。瞼の裏から薄い膜が一枚、剥がれ落ちるような感覚と共に、視界が滲みながら像を結ぶ。
「……んが…どこや、ここ」
声は乾いた紙のように掠れている。天井の泡膜はその問いを反響させ、室内の湿度は一拍だけ高まった。
ミルダは部屋の隅にいた。泥の染みと樹液の飛沫にまみれた作業着のまま、寝台の脇の木椅子に座っている。作業着の膝の汚れは、三日前のものと昨日のものが重なっていて、境目で色が少しだけ違う。境目を指でなぞる癖は、ミルダが疲れているときに出る。いまなぞっていた。
「大坂のシッケ箱やで。名前と——あと、どっから来たん」
「……シッケ箱て…なんやそれ…名前は…」
娘の脳髄に白い霧が立ち込める。高い塔。忙しなく働く宦官たちの靴音。そして、鼻腔を突く果汁の甘い匂い。影を濃くする杯。そこからの記憶は乱暴に破り捨てられている。
「……ヴィリナ。あとは…思い出せん」
枕元には飴色の偏光硝子。胸元には首飾り。それだけが、彼女を過去という岸辺に繋ぎ止める、唯一の錨だった。
ミルダは、娘がヴィリナと名乗ったことを、記録板には書き込まなかった。書き込むべきかどうか、三秒ほど迷った。迷った末、書き込まない方を選んだ。書き込まない理由はなかったが、書き込む理由もなかった。理由のない選択は、書式の中に居場所がない。居場所がないものは、身体が決める——ミルダの身体は、書かない方を決めた。
幽霊果実
軋む扉の音と共に、テントウムシ頭の男が現れた。象眼細工の義眼が、真鍮のレールを擦る音を立てて回転し、ヴィリナを冷徹に検分する。
「フレゴ。ここの班長や。昨日、北の廃屋からおまはんを運んできた」
その背後から、記録板を盾のように抱えた少年が、おずおずと顔を出す。記録板の隅に殴り書きされた文字——《タワシ/見習い修繕士》。
「タワシは流民や。言葉は不自由やけど、耳は確かや」
少年はヴィリナから距離を取り、彼女と天井の泡膜を交互に見つめる。彼の足元の影は、コンマ数秒遅れて追いつき、まるで粘度の高い廃油のように主人の足首に絡みついた。
「食べ。腹空いとるやろ」
フレゴは、手に持った林檎を無造作にヴィリナへと投げ渡す。
ヴィリナが反射的に手を伸ばす。指先が赤い果皮に触れようとした瞬間、林檎は接触不良の電球のように点滅し、指をすり抜け、寝台の上に転がった。
ミルダは目を逸らした。
逸らした理由は、この現象を三ヶ月前から毎朝見ているからだ。見慣れた現象は、見るたびに胃の底が冷たくなる。冷たくなる胃の底を、人に見られたくない。
「…悪い、まだ実体化してへん。3分待ち」
フレゴは淡々と、しかし忌々しげに大顎をこする。
「果国はんの『夢酔い』や。あっちの夢が濃すぎてな、こっちの物質も侵食しとる。物流も、存在確率も」
目の前の林檎は、台帳の記録によれば昨夜の配給で届いている。届いたはずの林檎が、いま部屋にある。林檎はある。ただし、指先で触れると、ない。
台帳は「ある」と言い、指先は「ない」と言う。どちらが正しいか、中央学士院に照会する書式は用意されているが、照会には最低三ヶ月を要し、回答が届くころには林檎は腐敗している。腐敗した林檎の照会は受理されない。受理されないまま、現象は日常になった。
ヴィリナの胃の腑で、形のない嫌悪感が鎌首をもたげる。目の前の林檎が、存在と欠如の間で忙しなく明滅する。物質と意味とを縫い合わせる定義の糸が、ほつれているのだ。2
「一週間前、おまはんを拾うた時から、街の揺らぎが止まったんや」
義眼の針が、値踏みするように彼女を射抜く。
「おまはんは街の鎮静剤か、劇薬か。どっちなんやろ…」
呼吸
ミルダは立ち上がって、台所の方へ行った。
棚の奥に、乾燥した柑橘の皮を入れた小瓶がある。蓋を開けると、干からびた匂いが立ち上る。夏の終わりの匂いだった。夏の終わりは、この泡礁帯ではただの記憶にすぎない。泡界のなかには季節がない。季節のない場所で季節を思い出すための小瓶を、ミルダは十年前から持っている。
湯を沸かした。
湯気が詰所の天井に触れて、一度だけ泡膜を撫でた。撫でられた泡膜は、ほんの少しだけ呼吸のリズムを合わせてきた。合わせてきたが、二呼吸でまた別のリズムに戻った。
カップを二つ並べた。片方は欠けている。欠けたカップは、七年前から欠けている。欠けたカップをまだ使っている理由は、欠けていないカップがもう一つあるからだ。
湯を注ぐ。
ヴィリナの分のカップからは、柑橘の皮の香りがゆっくり立ち上った。寝台のヴィリナはもうその香りを嗅いでいない——眼は開いているが、半分夢酔いに戻っている。
ミルダは自分の分を先に一口飲んだ。舌の奥で、湯がひと呼吸止まった。
逆流する因果
最初に感知したのはタワシだった。
寝台の横、床に落ちた彼の影が、本体よりも先に立ち上がり、何かを威嚇するように激しく痙攣した。
窓の外、薄い膜の潮流が逆回転を始める。あたかも、天球の外側にいる巨人が、掌でこの世界を撫で回し、時間を強制的に巻き戻しているかのように。
「うわぁ、来よった」
フレゴの義眼が痙攣をはじめた。
ミルダは工具箱を蹴り上げて扉へ走った。蹴り上げる前に、カップを二つとも棚に戻した。戻す手順は、欠けたカップを奥、欠けていないカップを手前——長年の配置だった。配置を変えなかったのは、配置を変えることを考える時間が、いまはなかったからだ。
泡界の外殻——そのさらに深淵を、細長い影が三つ、四つと疾走していくのが見えた。
帝国の回収屋か、あるいは泡界そのものの免疫機構か。判別がつくには、事態はあまりに速すぎた。
寝台の上で、ヴィリナは苦しげに身じろぎする。胸元の琥珀は心拍と異なるリズムで共鳴し、詰所の空気に、熟しすぎた果実の甘い匂い——あるいはそれを通り越し、魚醤が腐敗したような濃厚な芳香が充満する。
フレゴはむせ返りながら呟いた。
「おまはんは内側から泡界を鎮める”重石”か、それとも……」
言葉は、最後まで形にならない。詰所の壁の襞が一度だけ、大きく息を吸い込んだからだ。深淵からの吸気のように。
そのとき寝台のヴィリナは、乾いた唇を少しだけ開き、何かを言おうとして、結局、息を吐いただけだった。吐いた息は、湯気よりも重かった。重さは計測されなかった。計測する者が、部屋にいなかったからだ。3
Footnotes
-
果国中央学士院はアプリア帝国の学術機関であり、『果実状態論』は夢酔い現象の発生以前に編まれた規範書である。現在ではこの規範自体が夢酔いに汚染されており、第三巻の奇数ページと偶数ページで実体化段階の数が食い違っている。どちらが正しいかを決定する上位文献は、未発行である。 ↩
-
「定義の糸がほつれている」は学士院『果実状態論』第三巻の比喩表現を借りたものであり、第4班の公式記録ではない。公式記録では「感圧値の揺らぎ」「配給遅延」「視認障害」として報告される。比喩は記録にならない。記録にならない比喩のほうが、何が起きているかをよく写している。 ↩
-
本断章までに記述された出来事(娘の拾得、名前の発覚、林檎の明滅、壁の呼吸)は、第4泡礁帯維持管理出張所の公式記録には残されていない。ミルダが記録板に書き込まなかったためである。書き込まれなかったものが、翌月どのような形で別の記録系統に現れるかについては、本断章は立ち入らない。立ち入らないことが、本断章の形式的選択である。 ↩