[01 / LEYDA-MONO] · ST.43 / 20

豚の定理

2026.04.15 · OSAKA-SHU

豚の定理
▼ LEYDA

豚の定理

サクラベリックスのもとには豚がいる。

黒いラバースーツを着用した小太りの男性が複数名おり、彼らは豚n号(nは自然数)と呼称される。豚1号、豚2号、豚3号。彼らはサクラの日常の世話をしている。起床、食事、洗濯、口腔によるトイレ掃除、買い出し、就寝の管理。就寝の管理とは、サクラを寝かせることではなく、サクラが寝ないことを許容しつつ適切な温度の飲料を定期的に供給することを指す。口腔によるトイレ掃除については補足しない。名称が内容を過不足なく記述している。

豚n号はこの労務を自発的に引き受けている。

自発的に、という点が重要である。サクラは彼らを拘束していない。契約もない。しかし彼らは来る。毎日来る。ラバースーツを着て、仮面をつけて、名前を捨てて、番号だけを受け取って、来る。なぜか。利害が一致しているからである。

サクラは世話を必要としている。四十七秒以上退屈だとログアウトする人間に自己管理を期待するのは、水に対して上昇を期待するのに等しい。豚n号は——世話をすることを必要としている。世話をすること、それ自体を。もう少し正確に述べるならば、世話をし、それに対するサクラの反応を受け取ることを。

反応、とだけ記しておく。

どのような反応をサクラが返すのか、どのような形式の報酬が豚n号を充足させるのかについて、この文書は詳述しない。詳述する必要がない。黒いラバースーツで全身を覆い、顔を消し、名前を消し、番号だけの存在になることを自ら志願する人間が、何によって悦ぶかは、想像に委ねたほうが正確である。言語化すると、たいてい実態より上品になる。

サクラは彼らを雑に扱う。雑に、という語は不正確かもしれない。サクラは彼らを道具として扱う。道具として扱うとは、用途以外の属性を認識しないということである。


サクラの食事は豚1号が調理する。調理された食事はサクラの前に置かれる。豚n号の食事はサクラの食事の残りであり、床に置かれた皿から摂取される。床に置かれるのは皿が足りないからではない。皿はある。テーブルもある。しかし豚n号の食事は床に置かれる。なぜか。サクラがそう決めたからではない。サクラは何も決めていない。初日に豚1号が自分の分をテーブルに置いたとき、サクラは「なんでそこ座っとるん」と言った。疑問文であった。命令ではなかった。しかし翌日から豚n号の食事は床に置かれた。

豚n号は食事中もラバースーツを着用している。仮面の下部を持ち上げて口だけを露出させ、床に置かれた皿から食べる。食べる姿勢は四つん這いである。四つん這いで食事をする理由は、床に膝をつかなければ皿に口が届かないからであり、手を使わない理由は——手を使わない理由はない。手を使ってもよい。しかし使わない。使わないことは彼らが選択した。選択は自発的になされた。

サクラは豚n号の食事を見ない。見ないのは無関心だからである。無関心は残酷さとは異なる。残酷さには対象への認識が必要である。無関心には対象への認識がない。認識されないことが、認識されることより残酷であるかどうかは、ラバースーツの内側にしかわからない。


「3号、それ違うじゃろ。やり直し」

サクラは呼びかけに「おい」を使わない。番号だけで呼ぶ。「おい」には相手を人間として認識する最低限の指向性がある。番号にはそれがない。番号は在庫管理の語彙である。

豚3号はスリッパを揃え直す。口で。手は背中に回したまま、仮面の下部を持ち上げ、歯でスリッパの踵を咥えて位置を修正する。揃え直す動作は、一度目より丁寧になる。丁寧になることが目的なのか、やり直しを命じられることが目的なのかは、ラバースーツの内側にしかわからない。なお、揃え終えたスリッパの表面には歯型がつく。歯型のついたスリッパにサクラは足を入れる。歯型について何も言わない。何も言わないことは、歯型を認識していないということである。

サクラは指を一本上げる。上げる方向が1号を指す。指で指すのではない。方向を示すだけである。1号はその方向から意味を読む。毛布。薄い方。1号は走る。サクラの身体が指一本動いた瞬間に走り始める。言葉すらない。言葉がないということは、言葉を発する価値がないということだ。1号の体格に不釣り合いな加速で廊下を走る音がする。

2号は部屋の隅に膝をついたまま待機している。両手にはサクラの荷物が載せられている。ゲーム端末の予備バッテリー、充電器、未開封の菓子袋、飲料のストック。合計すれば相当の重量になるが、サクラは荷物を下ろしてよいとは言わない。下ろしてはならないとも言わない。何も言わない。何も言われていない状態で荷物を下ろすことが許されるか否かの判断は、豚n号に委ねられている。豚n号は下ろさない。下ろさないことは彼らが選択した。待機時間が何時間に及ぶかは、サクラのゲームの長さに依存する。ゲームが長い夜は六時間を超える。六時間、膝をつき、荷物を持ち続けた2号の腕が震えているかどうかは、ラバースーツの内側にしかわからない。

サクラが首を傾ける。傾けた方向に2号がいる。2号は水を持ってくる。氷なし。何度目かは数えていない。数えていないが正確である。正確であることに対してサクラは何も言わない。何も言わないことを2号がどう受け取るかは、ラバースーツの内側にしかわからない。


サクラベリックスは深夜にゲームをする。

深夜、という概念は本来サクラの時間感覚には存在しない。存在しないが、豚1号が就寝する時刻(二十二時)以降にサクラが画面の前に座るという事実があり、この事実を記述するために「深夜」という語が便宜上採用される。なお豚2号は二十二時に起床し、豚3号は眠らない。したがってサクラのゲームには常に少なくとも一頭——一名の世話係がついている。

ゲームは対戦型である。

対戦相手はセキュアDM経由の匿名プレイヤーであることもあるし、豚n号のいずれかであることもある。豚n号がコントローラーを握ることをサクラは許可している。許可というよりも、対戦相手がいないと四十七秒で飽きるため、生体パッド——すなわち負けるために存在する対戦相手——として豚n号を使役している。

豚n号はゲームが下手である。

下手であることは、この文脈において、欠陥ではない。

サクラの親指がコントローラーの上を走る。脚と同じだ。俊足レモンパイを履かずとも、指先の判断速度は身体の設計仕様に組み込まれている。画面が暗転する。暗転するまでの所要時間、三十一秒。四十七秒の閾値を大幅に下回っている。

「弱」

サクラは言う。青サングラスのレンズに画面の残光が映り、消える。

「もっかい」

豚2号がコントローラーを握り直す。二十八秒。暗転。

「弱」

「もっかい」

二十二秒。暗転。

「もっかい」

サクラはもう「弱」とすら言わない。言う必要がない。結果が自明だからである。自明な結果を繰り返すことに意味があるのかと問うのは、この力学を理解していない人間の発想である。自明であることに意味がある。勝つことが日常であり、日常が崩れないことが、サクラと豚n号の共有する唯一の安全保障であった。


午前三時十四分。

画面が暗転する。

暗転の直前に表示されていたのは、サクラのキャラクターが倒れるアニメーションである。

部屋の空気が変わる。物理的に変わる。豚3号が直立したまま首だけを画面に向け、豚1号が毛布を持ったまま静止し、豚2号がコントローラーを握ったまま——動かない。動けない。なぜならいま起きたことの処理が、ラバースーツの内側で追いついていないからである。

サクラが負けた。

豚2号の指が、最後の一秒で、正しい入力を行った。正しい入力を行うつもりはなかった。指が滑った——いや、滑ったのではない。四十七回負け続けた指が、反復の果てに、一度だけ正解に触れた。猿がタイプライターを叩き続ければシェイクスピアが出力されるように、豚2号は四十七回の敗北の果てに、一度だけ勝利を出力した。

出力してしまった。

サクラは何も言わない。

「弱」が来ない。「もっかい」が来ない。何も来ない。サクラの沈黙は通常、DMの確認中に発生するものであり、それ以外の文脈で発生したことがない。したがって豚n号はこの沈黙を処理するプロトコルを持たない。豚1号は毛布を差し出すべきか判断できず、豚3号はスリッパに触れてよいか判断できず、豚2号は——コントローラーを置くべきか握り続けるべきか、その判断の前段階にいる。

七秒が経過する。

サクラが青サングラスを外す。

この動作を豚n号は見たことがない。サクラの青サングラスは身体の一部であり、就寝時にも装着されているものであり、外れるものだという認識がそもそもない。サングラスの下の目が露出する。

目は開いていた。全開に。

サクラベリックスの瞳孔が、ミューズとしての泡共鳴覚醒時に見せるのとは別種の——もっと古い、もっと単純な——光を帯びている。

声が出る。

広島弁ではなかった。

「座れ」

一語だった。音程が低い。サクラの普段の声帯とは異なる振動数で鳴った声だった。語尾に甘さがない。語尾に丸さがない。語尾が存在しない。動詞の命令形が、そのまま空気を切って豚2号の鼓膜に刺さった。

豚2号のラバースーツから音がした。ラバーが急激に伸縮したときの、あの密着した音が。恐怖による震えなのか別種の震えなのかは本稿の管轄外であるが、いずれにせよ豚2号は座った。座らされたのではない。命じられた瞬間に自分の膝が折れることを、豚2号の身体は自発的に選択した。

サクラが立ち上がる。

サクラが立ち上がる速度は、通常のサクラと変わらない。速い。停止状態からの初動が速いのはミューズとしての身体特性であり、人格とは無関係である。無関係であるのに、同じ速度が、まったく別の圧力を持って部屋を満たす。

ここから先の四十七秒間に何が起きたかを、本稿は記述しない。

記述しない理由は二つある。一つは、豚1号が目を閉じたため目撃証言が存在しないこと。もう一つは、豚3号が初めて——設立以来初めて——首を縦に振ったことであり、首を縦に振るという行為が豚3号においてどのような意味を持つかについて、この文書が負える責任の範囲を超えているからである。

音だけを記録する。

ラバーの擦過音。小太りの体格が床材と接触する際の低い打音。空気が肺から押し出される音(複数回)。そしてその合間に、薄く、サクラの呼吸——荒いが制御されている呼吸——が混じっている。

四十七秒が経過する。

飽きるまでの閾値と同じだった。


午前三時十五分。

サクラベリックスは画面の前に座っている。

正確に述べるならば、サクラベリックスは豚2号の上に座っている。

豚2号は四つん這いの状態で静止しており、その背面は水平であり、その水平な背面の上にサクラが腰を下ろしている。俊足レモンパイの踵が床から浮いている。青白い長髪が豚2号のラバースーツの上に散っている。青サングラスはまだ外れたままである。

コントローラーを手に取る。

「もっかい」

声は——戻っていた。広島弁が戻っていた。語尾の丸さが戻っていた。しかしサングラスは戻っていなかった。サングラスのない目でサクラは画面を見ている。画面だけを見ている。

椅子は、微動だにしない。

豚2号が震えているかいないかは、ラバースーツの内側にしかわからない。しかし一つだけ外部から観測可能な事実がある。豚2号の四つん這いの姿勢は、サクラの体重を支えるにあたり、不自然なほど安定している。安定は訓練によって得られるか、歓びによって得られるか。前者であれば豚2号はこの状態を予期していたことになるし、後者であれば——

後者であれば、この文書は何も言うまい。

豚1号が毛布を持ってくる。サクラの肩にかける。かけながら、視線が豚2号の背中を通過する。通過するだけで、止まらない。毛布はいつもより丁寧にかけられた。丁寧であることの理由をサクラは問わない。問わないことが——この力学のどこに位置するのか、豚1号は毛布越しに考えている。

豚3号がスリッパを揃える。揃える必要のない位置にあるスリッパを、わずかに動かし、また元の位置に戻す。この無意味な動作が豚3号の処理能力の限界を示しているのか、あるいは豚3号なりの何かであるのかは、やはり管轄外である。

画面が暗転する。十九秒。

「弱」

日常が再開する。

ただし椅子の素材だけが変わっている。木材から肉へ。肉は木材より温かい。温かいことについてサクラは言及しない。言及しないことを豚2号がどう受け取るかは——

記録されない。記録されないものは台帳に載らない。台帳に載らないものは、通常、存在しない。

通常は。

豚2号の背中の上で、サクラの体重が微かに揺れる。ゲームの操作に伴う揺れ。それだけの揺れ。それだけの揺れを、豚2号は全身で受け止めている。

敗北し続ける豚は報われる。勝利した豚は罰される。罰されることが敗北以上の報酬であるならば、豚にとって最適戦略は『一度だけ勝つこと』である。しかし意図的に一度だけ勝つことは不可能である。意図した勝利は勝利ではなく作業だからだ。したがって豚の最適戦略は実行不可能であり、実行不可能な最適戦略だけが最適であり続ける。——これを本稿では豚のジレンマと呼ぶ。

🐷 『大坂豚論叢・別冊』第7号 投稿論文より

豚1号は今夜の出来事を台帳に記録するだろうか。記録するとすれば、どのような証拠性標識が付されるだろうか。

〔直接証拠・ただし目を閉じていた〕。

この標識は証拠法的に成立しない。成立しないことだけが、唯一正確な記録であった。


本稿の校了後、豚2号から投稿論文の査読依頼が届いた。論文の題は「可算回の敗北ののちに到達する不可算の均衡について」であり、著者名の欄にはn=2とだけ記されていた。査読者として豚1号を指名する旨の付記があったが、豚1号は「査読できる状態にない」との回答を返した。理由は記されていなかった。豚3号に転送したところ、原稿が揃えられた状態で返送された。一字の修正もなく、しかし頁の順番だけが入れ替わっていた。正しい順番がどちらであったかは、もはや判定できない。

📎 編者注