[01 / LEYDA-MONO] · ST.44 / 20
焼き鳥売りの定理
焼き鳥売りの定理
「行商とは、移動する確信のことである。品質は確信に先行しない。確信が品質を規定する。したがって、確信さえあれば何でも串に刺さる」
『行商論序説:滴乱紀における移動商業の力学的分析』著者欠番、カロティア大学出版局・絶版
第一場:叩打
昼だった。
ドマロンは静かだった。静かであるということは正常であるということだ。屋根のオレンジが四拍で呼吸し、クロッキーの紫煙が梁を巡り、ブルーアイズたちがリビングの隅で藍色の毛を重ねて眠っている。ヴィリナはシッティーに体重を預けて半眼のまま何かを噛んでおり、グラインディッシュは工房の蝶番か何かと向き合っていた。
道具たちは道具として振る舞い、獣は獣として丸まり、人間は人間として怠惰であった。
ドマロンの午後とは、要するにそういうものだ。
玄関の扉が殴られた。
チムリーが鳴ったのではない。チムリーは来客に鳴る。来客とは、扉の外に意思をもって立ち、扉を押すか引くかの判断を保留している存在のことだ。チムリーはその保留を検知して鳴る。
だが今回は違った。扉が殴打されていた。拳で。平手で。掌底で。ときどき肘で。殴打のリズムは不規則で、しかし熱量だけが一貫していた。
チムリーは困惑し、鳴らなかった。ベル精霊の存在原理に「殴打」は含まれていないのだ。ノックでも風でもない衝撃に対し、チムリーは判断を停止した。鳴らないことで、状況を正確に伝えた——これは来客ではない。
「おいしいですよッッッ!!!」
声が扉を透過してきた。
大坂の骨霧は音を吸う。壁を越える声は減衰し、輪郭を失い、意味が溶けた状態で室内に届く。だが、この声は溶けなかった。声圧が骨霧の吸音限界を上回っていた。声が壁を殴り、壁が空気を殴り、空気がグラインディッシュの鼓膜を殴った。三段階の殴打が、ドマロンの防音構造を完全に無効化した。
「焼きたてですッ!! すぐここで焼きますからッ!!」
グラインディッシュが工房から出てきた。ドライバーを握ったままだった。サングラスの奥の琥珀色の目が、玄関の方角を見た。
ヴィリナのポンスケの手が止まった。半眼が〇・二度だけ開いた。
「……なんや、あれ」
第二場:確信
グラインディッシュが玄関を開けた。
ドマロンの扉は約四百年前に建てられた木製の扉であり、その四百年の間に開いた人間はヴィリナ一人だけだった。つまりこの扉は、開く相手を選ぶ。焼き鳥売りに対して開いたのは、グラインディッシュが内側から開けたからであって、扉が認めたわけではない。扉の把手は、開いた後もしばらく冷たいままだった。拒絶の名残だ。
男が立っていた。
痩身。エプロン。首元に手拭い。腰には包丁ケースが革紐で括りつけてあり、歩くたびにケースの金具が鳴る。右手に団扇を持ち、左手は扉に押し当てたままだった。そして背中に七輪を背負っていた。
七輪を、背負っていた。
背負子に固定された丸型の七輪。炭はまだ熾されておらず、灰色の炭が灰色の灰のなかで灰色に待機していた。七輪の上面には金網が載り、金網の上には何も載っていなかった。空の金網。つまり、焼くべき肉がまだ存在しない状態で、この男はドマロンの扉を殴りに来たのだ。
「おいしいですよ」
男は言った。まだ何も焼いていない。
「すぐ焼きますから」
何を焼くのかは、言わなかった。
グラインディッシュはサングラスの位置を直した。額の皺が一本増え、口元が薄く引き結ばれた。彼の怒りは静かに始まる。始まりだけは静かだ。
「帰れ」
短い。作業中のグラインディッシュの語彙だ。蝶番と同じ扱い。不具合を検知し、排除命令を出す。
「いやいやいや、聞いてくださいよ旦那!」
男は帰らなかった。帰らないどころか、扉の隙間に足を差し入れた。焼き鳥売りの足は、ドマロンの扉が四百年間拒み続けてきたすべての来訪者よりも、はるかに積極的だった。この扉を唯一通過したヴィリナでさえ、扉が自ら開くのを待った。しかし焼き鳥売りは待たない。確信が品質に先行するように、侵入は許可に先行する。
「うちの串ね、一回食べたらもう他のは食べらんなくなりますからね!」
グラインディッシュの額の皺が二本になった。
「帰れと言っている」
「いやだから、ちょっと一本だけ——」
「——何も載っていないだろう」
グラインディッシュの視線が、男の背中の金網を指した。空。串がない。肉がない。炭に火がない。完全なる不在。焼き鳥売りのすべての構成要素が、焼き鳥の不在を証明していた。彼は焼き鳥売りの形式だけを完璧に装備し、焼き鳥の実質を一切持っていなかった。
焼き鳥なき焼き鳥売り。
男は一瞬だけ沈黙し、それから満面の笑みを浮かべた。
「だからすぐ焼くって言ってるでしょう!!」
論理的に正しかった。今ないものは、これから作ればいい。その推論自体は正しい。正しいが、問題は「何を」が依然として欠落していることだった。
第三場:発砲
グラインディッシュが焼き鳥売りの肩を掴み、押し返そうとした、その時——隣の芝生から人間が出現した。
出現、としか言いようがない。そこに家があることをグラインディッシュは知っていた。知っていたが、住人を見たことはなかった。ドマロンの近隣住民の情報は、サトーの管理台帳に記載があるはずだが、グラインディッシュはそれを読んだことがない。道具棚の整理には五十年分の記録を精査するが、隣人の名前は知らない。ドマロンとはそういう場所だ。
老人だった。
タンクトップ。水色のトランクス。腹部が突出しており、タンクトップの裾が腹の曲率に沿って持ち上がり、臍の下三センチが常時露出していた。足元はサンダル。左足のサンダルの鼻緒が切れかけている。その老人が、猟銃を持っていた。
猟銃を、持っていた。
二連式。銃身は手入れされていない。木部は油が切れて白く乾き、トリガーガードに錆が浮いている。だが、銃口だけは黒光りしていた。使われている部分だけが磨かれている。この銃は飾りではない。
老人は猟銃を焼き鳥売りに向けて構えた。
グラインディッシュの判断は速かった。速かったが、方向が変わった。押し返す手を離し、一歩退き、二歩退き、三歩目で玄関の扉を閉めた。蝶番が軋む。今朝直したのとは別の蝶番だ。
窓。
グラインディッシュはリビングの窓際に移動し、カーテンの隙間から外を見た。カーテンは遮光性の厚い布で、隙間は三センチほどだった。三センチの隙間から見える世界は、三センチ分だけ正確で、残りは推測だった。
芝生の上で、老人が焼き鳥売りに銃口を向けている。
「俺の街で勝手に商売してんじゃねえよ!!」
声は壁を透過した。今度は骨霧の減衰を受けて少し柔らかくなっていたが、銃口の存在がその柔らかさを完全に無効化した。
グラインディッシュは息を止めた。
「……かなりヤバいぞ」
リビングの空気が変わった。ブルーアイズたちの耳が一斉に動いた——が、身体は動かさなかった。耳だけが情報を収集し、四つの青い塊は丸まったまま、眠ったふりを続けている。ミセス・ジュースは廊下の奥で静止していた。球体関節は軋まない。完全なる不動。シッティーは背もたれの角度を1度も変えず、ヴィリナを載せたまま、家具として存在していた。
道具たちは全員、同時に、独立に、同じ結論に達していた。これは関わったら負ける。
約四百年間、さまざまな状況を生き延びてきた道具たちの、集合的な生存判断だった。彼らは寝たふりを選択した。寝たふりとは、道具にとって最も自然な状態への回帰である。動かない道具はただの物質だ。物質は責任を問われない。
ヴィリナがシッティーから降りずに、窓の方へ首だけ向けた。
「……何が起きてんの」
「黙れ。見てろ」
グラインディッシュが三センチの隙間から外を見ている。ヴィリナが窓の別の隙間から外を見始めた。二人の視線が、それぞれ三センチずつの隙間から、同じ芝生の同じ光景に向けられている。合計六センチの観測窓。
第四場:落下
老人が銃口を真上に向けた。
威嚇射撃。論理的には空に向かって撃つことで「撃つ能力がある」ことを証明し、「次は当てる」という暗黙の約束を成立させる行為だ。銃声が骨霧を裂き、大坂の曇天に穴を開けた。音は壁を三度殴り、ドマロンの窓硝子を震わせ、屋根のオレンジの呼吸リズムを一拍乱した。
弾丸は上昇した。
弾丸が上昇するとき、弾丸はまだ何も知らない。自分がこれから何に命中するのかを知らない。弾丸に意志はなく、弾道だけがある。弾道は放物線を描き、頂点に達し、落下に転じる——はずだった。
落下に転じる前に、弾丸は何かに命中した。
コンドルがいた。
なぜコンドルがドマロンの真上にいたのか。コンドルは屍肉食の鳥類である。屍肉の匂いに誘引される。焼き鳥売りが背負っていた肉——いや、焼き鳥売りは肉を持っていなかった。ここで論理が一瞬だけ揺らぐ。金網の上には何も載っていなかったはずだ。
しかしエプロンには載っていた。
焼き鳥売りのエプロンの裏ポケットに、仕入れ途中の鶏肉が数切れ、新聞紙にくるまれて入っていた。焼く前の肉。串に刺す前の肉。客に見せる前の、まだ商品になっていない肉。その匂いを、コンドルは二百メートル上空から検知していた。コンドルの嗅覚は哺乳類の数十倍であり、骨霧の減衰率を考慮しても、新聞紙一枚程度の遮蔽では屍肉食の鼻は誤魔化せない。
弾丸がコンドルの胸部に命中した。
物理的に言えば、これは確率の問題であり、確率は極めて低い。だが、確率が低い出来事は起こらないのではない。起こりにくいだけだ。起こりにくい出来事が起こるとき、それは事故と呼ばれる。起こりにくい出来事が起こり、かつその結果が別の起こりにくい出来事を引き起こすとき、それは喜劇と呼ばれる。
コンドルが落ちてきた。
翼を広げたまま——翼幅は約二メートル——コンドルは回転しながら落下した。回転軸は不規則で、風の影響を受け、軌道は予測不能だった。唯一予測できたのは、着地点が芝生のどこかであるということだけだった。
コンドルは老人の頭に命中した。
翼幅二メートルの屍肉食鳥類が、時速およそ四十キロで、タンクトップの老人の頭頂部に激突した。老人の膝が折れ、銃が手から離れ、身体が芝生の上に崩れ落ちた。コンドルもまた、老人の隣に落下した。翼が半開きのまま、芝生の緑と鳥の黒が、倒れた老人の水色のトランクスを挟んで、奇妙な静物画を構成していた。
カーテンの隙間の向こうで、グラインディッシュは何も言わなかった。
ヴィリナも何も言わなかった。
三秒。
五秒。
「…………」
「…………」
グラインディッシュが先に口を開いた。
「……ヤバいぞ」
二回目だった。
第五場:捌く
焼き鳥売りは、事態を処理し始めた。
処理。この語の選択には注意が要る。人間が予期せぬ状況に直面したとき、反応は大別して三つに分かれる。逃走、硬直、対処。焼き鳥売りは三番目を選んだ。しかし彼の「対処」の定義は、一般的なそれとは位相が異なっていた。
焼き鳥売りは、倒れた老人に恐る恐る近づいた。四歩。三歩。二歩。老人の胸が上下しているのを確認した。生きている。次に、老人の隣に横たわるコンドルを見た。翼が半開きのまま動かない。死んでいる。
焼き鳥売りの目が変わった。
目が、変わった。
恐怖が消え、代わりに別の何かが瞳の奥に灯った。名前のつけにくい光だった。強いて言えば、職業的認識と呼ぶべきもの——素材を素材として認識する瞬間に、人間の目に宿る光。陶芸家が河原で粘土質の土を見つけた時、木工職人がよく乾いた流木に触れた時、そして焼き鳥売りが肉を見た時。
腰の包丁ケースの革紐を解いた。
「……悪いな。お前の肉、使わせてもらうぜ」
コンドルに向かって言った。コンドルは何も答えなかった。答えない相手に許可を求める行為は、倫理の形式だけを履行するための手続きであり、実質的には独り言だった。しかし焼き鳥売りにとって、この手続きは重要だった。素材に敬意を払う。敬意を払った上で、捌く。
包丁がコンドルの胸肉に入った。
グラインディッシュのサングラスの奥で、瞳孔が収縮した。
「……おい」
ヴィリナの半眼が、〇・五度開いた。彼女にとっての驚愕の表現だった。
「……捌いてる」
「見ればわかる」
「……コンドルって食えるん?」
「食えない」
グラインディッシュは断言した。コンドルは屍肉食の鳥類である。屍肉を食べる生物の肉は、屍肉の風味を蓄積する。生物濃縮の原理だ。腐敗物を食べ続けた身体は腐敗の記憶を筋繊維に刻み込み、その肉を加熱しても記憶は消えない。焼けば焼くほど、死んだものの記憶が立ち昇る。
「食べたらあかんやつやん」
「食べたらあかんやつだ」
グラインディッシュが関西弁を復唱した。普段はしない。だが状況の不条理さが、言語の壁を融解させていた。
焼き鳥売りは手際よくコンドルを解体していた。胸肉、腿肉、手羽——部位ごとに分け、新聞紙の上に並べていく。動きに迷いがなかった。鶏でもコンドルでも、鳥は鳥だ。解剖学的構造は同じだ。胸骨があり、竜骨突起があり、大胸筋がその両側に張っている。包丁は関節の隙間に正確に入り、靭帯を切り、骨を外す。
技術だけが、正気だった。
彼は串打ちを始めた。背負子から竹串の束を取り出し、一本ずつ肉に通していく。串の角度、肉の大きさ、間隔。すべてが均等だった。コンドルの肉が、焼き鳥の形式に完璧に整形されていく。
「…………」
グラインディッシュもヴィリナも、もう何も言わなかった。カーテンの隙間から、六センチの観測窓で、一連の作業工程を無言で見つめていた。道具たちは引き続き寝たふりをしていた。ハニーくんだけが、キッチンの隅から一度だけ焼き鳥売りの方角を向いたが、即座にセンサーを閉じた。蜂蜜の用途リストに「コンドルの臭み消し」が一瞬浮上し、却下され、永久削除された。
焼き鳥売りは串打ちを終えた。八本。コンドル一羽から八本の串。歩留まりとしては悪くない。
男は背負子から七輪を下ろし、芝生の上に据えた。炭を組み、火を熾した。マッチを三本使い、新聞紙の端を燃やし、細い炭から順に火を移していく。白い煙が芝生を這い、老人の水色のトランクスの裾を撫でた。老人はまだ気絶していた。コンドルの残骸がその横にあり、焼き鳥売りがその向こうで火を熾している。
三つの存在が、芝生の上に三角形を構成していた。
気絶した老人。死んだコンドル。火を熾す焼き鳥売り。
三頂点の三角形。重心はどこにもなかった。
第六場:臭気
煙は、最初は白かった。
炭が赤熱し、脂が滴り、脂が炭に触れて蒸発する。その蒸気が煙として立ち昇る。鶏肉ならば、この煙は食欲を誘う。タンパク質が熱分解されるときに放出されるメイラード反応の副産物——アミノ酸と糖の化合物——が、人間の嗅覚受容体を刺激し、唾液分泌を促進する。
コンドルの肉は違った。
煙の色が変わった。白から灰色へ、灰色から黄色味を帯びた灰色へ。匂いが変わった。焼き鳥の匂いから、何か別のものの匂いへ。別のもの。名前をつけるなら「記憶の焦げ」としか言いようのない匂い。コンドルが生涯をかけて食べてきたすべての屍肉の記憶が、加熱によって筋繊維から解放され、煙となって大坂の骨霧に混じり始めた。
骨霧は音を吸う。だが匂いは吸わない。
大坂の湿った空気は、匂いを保持し、拡散を遅らせ、濃度を維持する。焼き鳥売りが焼いているコンドルの煙は、骨霧に包まれて高濃度のまま芝生の上に留まり、やがて地面を這い、ドマロンの壁に触れ、窓の隙間から室内へ——
「……臭い」
ヴィリナが言った。関西弁のイントネーションで「臭い」が発話されるとき、そこには単なる嗅覚情報の報告を超えた、存在論的な不快感が含まれる。「臭い」のではない。世界が間違っているのだ。
「わかっている」
グラインディッシュが窓を閉めた。二重ガラスではない。木枠の窓。閉めても匂いは減衰するだけで、消えない。骨霧が窓枠の隙間を通過し、室内の空気に匂いを注入し続けている。
「……あかん」
「わかっている」
「開けたらもっとあかん」
「わかっている」
会話が、同じ構造で反復した。ヴィリナが状況を報告し、グラインディッシュが承認する。報告と承認が積み重なるが、解決策は生まれない。解決策が生まれないまま、匂いだけが増加していく。
六センチの観測窓の向こうで、焼き鳥売りの顔色が変わり始めていた。
最初は赤かった。火の近くにいるから赤い。論理的だ。次に白くなった。白くなるのは論理的ではない。火の近くにいて白くなるのは、熱以外の何かが血管を収縮させているということだ。
匂いだった。
焼き鳥売りは自分が焼いている肉の匂いで、自分が参っていた。
「……おかしいな?」
男がつぶやいた。串をひっくり返しながら、首を傾げている。おかしいのは男自身であって、肉ではない——いや、肉もおかしいのだが、男はまだそれを認めていなかった。確信が品質に先行する。品質が確信を裏切るまで、焼き鳥売りは焼き鳥売りであり続ける。
「……当たり前やろ」
ヴィリナが窓の内側から呟いた。声は窓を透過しなかった。焼き鳥売りには届いていない。届いていないが、ヴィリナは別に届けようとしていない。世界の正しさを確認するための独白だった。
「見てみ、コンドルの肉焼いてんのに、おかしいな?とか言うてる」
「見ている」
「アホちゃう」
「そうだな」
グラインディッシュの語尾が短くなっていた。作業中のレジスターに切り替わっている。問題を分析し、最小工数で解決する。蝶番の修理と同じ思考回路だ。だが今回の問題は蝶番ではなかった。芝生の上の三角形——気絶した老人、死んだコンドルの残骸、そしてコンドルを焼いている焼き鳥売り——を、どう処理するか。
答えが出る前に、状況が動いた。焼き鳥売りの顔色が、白から青に変わった。
「もう限界だッ!!」
男は串を網の上に放り出し、立ち上がり、走り出した。背負子も七輪も置いたまま。包丁ケースだけが腰で揺れている。走る方角は、ドマロンの反対側——東の坂道の方だ。骨霧の中に痩せた背中が小さくなり、やがて見えなくなった。
残されたもの:七輪一基(点火済、コンドルの串八本)。コンドルの残骸。気絶した老人一名。猟銃一丁。芝生の上の血痕と脂と灰と骨霧。
「……行ったな」
「……行った」
二人は同時に同じことを言い、同時に同じ方向を見た。
第七場:台車
七輪の火は消えなかった。炭は一度熾されると、酸素がある限り燃え続ける。大坂の骨霧は湿度が高いが、酸素濃度には影響しない。コンドルの串は網の上で焼かれ続け、煙は立ち昇り続け、匂いはドマロンの壁を這い続けた。
ヴィリナが言った。
「……ジジイ片付けてきて」
「なぜ俺が」
「うちの家の庭やろ。あんたが管理者やろ」
「管理者はサトーだ」
「あんたが大家気取りしてるから同じことやろ。はよ行き」
グラインディッシュは反論しようとした。だが反論の材料が見つからなかった。管理者がサトーであることは事実だが、サトーは今ここにいない。いない管理者に管理責任を委譲することはできない。責任は現場にいる者に帰属する。それがドマロンの暗黙の運用規則だ。
道具たちに視線を向けた。
ブルーアイズ。丸まっている。毛がそよいでいる。寝息が聞こえる。寝息の規則性が完璧すぎた。本当に眠っている獣の呼吸は不規則だ。規則的な呼吸をしている獣は、呼吸を制御している。つまり意識がある。意識があるのに眠ったふりをしている。
ミセス・ジュース。廊下の奥。直立不動。関節は一切鳴らない。関節が鳴らないということは、一切動いていないということだ。動いていない夫人は、ただの人形だ。人形には何も頼めない。
ハニーくん。キッチンの隅。センサーを閉じている。駆動音が消えている。駆動音が消えた養蜂ロボは、ただの錆びた箱だ。
シッティー。ヴィリナの下。椅子。ただの椅子。四本脚の、金属製の、何の変哲もない——全員がただの道具に戻っていた。
完璧な寝たふりだった。約四百年の集合知が導いた最適解。「関わったら負ける」。道具たちはそれを知っていた。知っている道具は賢い。賢い道具はただの道具に見える。ただの道具に見える道具には、何も頼めない。
「……仕方ない」
グラインディッシュは緑のツナギの袖を捲り上げ、玄関に向かった。
芝生に出た。匂いが直撃した。骨霧に保存されたコンドルの煙が顔面を包み、鼻腔を満たし、眼球の表面を刺激した。サングラスのレンズが一瞬だけ曇った——涙ではない。匂いの粒子がレンズ表面で結露しただけだ。結露。これは物理現象であり、感情ではない。
玄関の横に台車があった。
配管工事用の平台車。錆びた鉄板の荷台に、ゴムタイヤが四つ。ハンドルは木製で、握り部分がすり減っている。サトーが配管点検の時に使う台車だ。これに七輪を載せて運び出す。計画としては最短経路だ。
グラインディッシュは七輪を両手で持ち上げ、台車の上に載せた。炭がまだ赤い。串が網の上で焦げ続けている。持ち上げた瞬間、脂が炭に落ち、新しい煙が顔に向かって立ち昇った。目を細めた。
台車のハンドルを握り、道の方へ押し始めた——
「動くな」
背中に声が当たった。
声と同時に、金属の感触。銃口が、背中の肩甲骨の間に押し当てられている。冷たい。銃身の温度は外気温と同じだ。だが皮膚は、恐怖と冷たさを区別しない。
老人が起きていた。
頭頂部にコンドルの羽根が一枚張り付いたまま、タンクトップと水色のトランクスの老人が、猟銃をグラインディッシュの背中に向けて立っていた。
「なんだその臭い肉は。お前、怪しいな」
老人の声は低く、怒りで震えていた。状況を整理する能力が、怒りの量に追いついていない。彼が認識しているのは以下の事実だ——気づいたら芝生に倒れていた。頭が痛い。横に鳥の死骸がある。目の前に緑の服を着た男がいる。男は臭い肉を台車に載せている。結論:こいつが怪しい。
論理的には穴だらけだが、銃を持っている側の論理は、持っていない側の論理に常に優先する。
グラインディッシュは台車のハンドルから手を離した。
手を離した。
台車は芝生の上にあった。ドマロンの庭は東に向かって緩やかに傾斜している。傾斜は約三度。三度の傾斜は、人間の足には感じにくい。だが、台車のゴムタイヤは三度の傾斜を正確に感知していた。
台車が動き始めた。
ハンドルを離した台車は、七輪を載せたまま、芝生の上をゆっくりと東へ向かって転がり始めた。ゴムタイヤが芝生を踏み、草が倒れ、七輪から小さな火の粉が散った。台車は加速しない。減速もしない。三度の傾斜が与える一定の加速度と、芝生の摩擦抵抗が拮抗し、台車はほぼ等速で、道の方へ進んでいった。
グラインディッシュは振り返れなかった。背中に銃口がある。両手を上げている。台車が視界の外へ出ていくのを、音だけで聴いていた。ゴムタイヤが芝を踏む音。炭が揺れて金網に当たる音。串の脂が落ちる音。
「聞いてくれ。俺はこの家の住人で——」
「嘘つけ。この家には誰も住んでいなかった」
「いや、最近——」
「四百年だぞ。四百年誰も出入りしなかった家から、急に緑の服着た男が出てきて、臭い肉持ってうろうろしてたら怪しいだろうが」
四百年。 隣人はドマロンの空白期間を正確に把握していた。近隣住民の観察力は侮れない。
グラインディッシュは説得を続けようとした。だが説得の言葉を選んでいる最中に、視界の端——サングラスのフレームの外側、ぼやけた周辺視野——で、何かが動いた。
東の坂道の方から。
走ってくる人影。
痩身。エプロン。腰に包丁ケース。
焼き鳥売りが戻ってきた。
両手に、特大の缶を抱えていた。業務用消臭スプレー。缶の直径は二十センチ以上。高さは四十センチ近い。ラベルには「超強力・瞬間消臭・業務用」と印刷されており、注意書きには「火気厳禁」の四文字が赤く印字されていた。
火気厳禁。
焼き鳥売りは走っていた。必死な顔だった。確信が崩壊した後の顔——つまり品質が確信を裏切った後の、修復を試みる顔だった。臭い。だから消臭する。論理としては正しい。正しいが、彼の走る先には台車がある。台車の上には七輪がある。七輪の中には赤熱した炭がある。そして彼の手には火気厳禁の缶がある。
「待て」
グラインディッシュが叫んだ。振り返れない。背中に銃口がある。だが叫ぶことはできた。声は前方に向かって発射された。だが焼き鳥売りは前方にいない。東から来ている。声は西に飛んだ。音は行き違い、焼き鳥売りの耳には届かなかった。
焼き鳥売りは足元を見ていなかった。
視線は前方——ドマロンの芝生に置き去りにした七輪——に固定されていた。走る。走る。消臭スプレーを抱えて走る。匂いを消す。消せばまだ焼ける。焼ければまだ売れる。売れればまだ焼き鳥売りでいられる。
台車が、坂道と芝生の境界にいた。
焼き鳥売りの脛が台車のハンドルに激突した。
衝撃で台車が傾き、七輪が荷台から滑り落ち、赤熱した炭が芝生に散乱した。焼き鳥売りの身体は前方に投げ出され、消臭スプレーの缶が手から離れ、放物線を描いて——炭の上に落ちた。
缶の表面温度が急上昇した。内部のガスが膨張した。
〇・八秒。
爆発した。
第八場:制圧
爆風は球形に広がった。
爆発の物理は単純だ。圧力が均一に膨張する。均一に、平等に、例外なく。爆風は老人を押し、グラインディッシュを押し、芝生を押し、ドマロンの壁を押した。
グラインディッシュは爆発音を聞いた瞬間に動いていた。
振り返り、老人の猟銃を右手で掴み、銃身を上に向け、左手で老人の肩を押し倒した。同時に自分の身体を老人の上に被せた。爆風がグラインディッシュの背中を叩いた。消臭剤の粒子が衝撃波に乗って彼の後頭部、首筋、背中、ツナギの全面に浸透した。
消臭剤と屍肉の煙とコンドルの脂と炭の灰が混合した気体が、グラインディッシュの衣服に定着した。
老人は地面に押し付けられ、呆然としていた。目が開いているが、何も見ていない。グラインディッシュが猟銃を取り上げ、安全装置をかけ、射程外に置いた。老人の抵抗はなかった。二度目の衝撃——一度目はコンドル、二度目は爆風——で、老人の戦意は完全に消失していた。
制圧完了。
グラインディッシュは老人の上から身体を起こし、膝をついた。サングラスが割れていた。レンズに蜘蛛の巣状のひびが入り、右目側のフレームが曲がっている。琥珀色の目が、割れたレンズ越しに芝生を見た。
焼き鳥売りは、十メートル先の植え込みに突っ込んでいた。台車の残骸とコンドルの骨が散乱し、七輪は横倒しになり、消臭スプレーの缶は破裂して花のように開いていた。焼き鳥売りは生きているようだが動いておらず、植え込みの葉がエプロンの上に降り積もっていた。
芝生は焦げ、消臭剤の泡が草の間に白く残り、空気はコンドルの脂と消臭剤と炭と骨霧の四重奏を奏でていた。
グラインディッシュは立ち上がった。
臭かった。
体中が臭かった。消臭剤が屍肉の煙を中和するのではなく、屍肉の煙と化合して新しい匂いを生成していた。その匂いに名前はない。名前がないのは、人類がこの匂いをカテゴリとして登録したことがないからだ。コンドルの屍肉の煙と業務用消臭剤の混合物を、至近距離で全身に浴びた人間は、歴史上グラインディッシュが最初だった。
彼はドマロンの玄関に向かった。
扉が開いた。ドマロンの扉は彼を拒まない。四百年間、彼のために建てられた家だ。扉は開く。
だが、扉の内側に、ヴィリナが立っていた。
半眼。飴色サングラス。緑のスウェット。チャンキーソールの白いスニーカーが、扉の敷居の上に置かれている。敷居の上に立つということは、通行を遮断するということだ。
「入るな」
「……何?」
「臭い。入るな」
「俺は——」
「臭い」
「爆風から——」
「臭い」
三度目の「臭い」は、もはや嗅覚情報の報告ではなかった。命令だった。入るな。この家に匂いを持ち込むな。お前の体に染み付いたコンドルと消臭剤の混合臭を、ドマロンの空気に触れさせるな。
グラインディッシュは英雄的行為をした。老人をかばい、猟銃を制圧し、爆風から他人を守った。その報酬が、家に入れないことだった。
扉が閉まった。
蝶番が軋んだ。
第九場:外
グラインディッシュは外で寝た。
一日目。庭の隅で、工房から持ち出した作業シートを被って眠った。夜の骨霧が湿度を上げ、体表の匂い分子を活性化させた。夜は昼よりも臭かった。
二日目。ドマロンの裏手に簡易的な屋根を組んだ。工房の端材と防水布。蝶番の技術が役に立った。だが屋根があっても匂いは消えない。匂いは建築の問題ではなかった。
三日目。サトーが配管点検に来た。玄関でヴィリナに状況を聞き、裏手のグラインディッシュを見た。〇・三秒の評価遅延の後、サトーは「あ、外泊してはるんですね。ほな配管見ますね」と言って業務に戻った。異常の検知はするが、優先度を下げる。サトーはそういう人物だった。
四日目。匂いは薄くなり始めた。しかしヴィリナの嗅覚は鋭敏で、判定は厳しかった。「まだ臭い」。グラインディッシュは反論しなかった。反論しても匂いは消えない。
五日目。雨が降った。大坂の雨は骨霧を洗い流し、空気の密度を変える。グラインディッシュの衣服も雨に打たれ、繊維に染み込んだ匂い分子が一部流出した。匂いの濃度は有意に低下した。だが完全には消えなかった。
六日目。道具たちが動き始めた。ミセス・ジュースが裏手にグラインディッシュの予備のツナギを持ってきた。彼女は三歩の距離を保ちながら、ツナギを地面に置いて戻った。接触回避。匂いの二次感染を防ぐための手順だ。
七日目。ヴィリナが窓から顔を出した。
「……まだちょっと臭い」
「もう大丈夫だろう」
「んー……」
「……」
「……ま、ええか。入り」
グラインディッシュが玄関の前に立った。扉が開いた。七日ぶりだった。
玄関を入った瞬間、クロッキーの紫煙が廊下を巡り、ブルーアイズの一体が片耳を動かし、ハニーくんが駆動音を鳴らした。道具たちが一斉に「起きた」。七日間の寝たふりが、同時に解除された。
チムリーが鳴った。
「Key〜n」
来客ではなかった。帰還だった。しかしチムリーはその区別をしない。扉が開けば鳴る。それがチムリーの存在原理だった。
日付: FY2XX年■月■日〜■日 物件:ドマロン(大坂州・南区■丁目) 記録者:サトー
定期配管点検のため訪問。水回り異常なし。 入居者Aが屋外にて仮設構造物を建造し滞在中。 入居者Bに確認したところ「臭い」との回答。 臭気の原因は庭で発生した焼却事案による衣服への付着と推定。 近隣住民との間に軽微なトラブルがあった模様だが、双方の健康状態に問題なし。 猟銃の所持許可についてはピーチエステートの管轄外。 特記事項:庭の芝生に焦げ跡あり。修繕の要否は次回点検時に判断。 次回点検予定日:通常スケジュール通り
以上
ピーチエステート管理日誌 第■■号
「記録とは出来事の近似値である。ここに書かれた事案は、実際の事案に対して少なくとも三箇所の省略と二箇所の誤認を含む。しかし記録が完璧であったことは、記録の歴史において一度もない。ピーチエステートの管理日誌もまた、その例外ではない。サトーは異常を検知するが深掘りしない。深掘りしないことで、記録は安定する。安定した記録は、不安定な出来事より長く残る。台帳の第一原理はそれだ——正確さではなく、持続性」
『管理の形而上学:記録における省略の効用について』カロティア不動産研究会紀要・別冊