[01 / LEYDA-MONO] · ST.45 / 20
果汁の塔・測量不能報告書
果汁の塔・測量不能報告書
ペルジャーノ・カナーレ(帝国建築測量局・第四級測量技師)
『泡構造建築紀要』第89巻第3号、AS 840年、pp. 1–34 共著者:なし(ただし、塔の影が原稿に何度か手を加えた疑いがある)
要旨(Abstractum)
果汁の塔(Turris Succi)の高度は測定不能である。本稿ではこの結論に至るまでの七回の測量作業と、その全てが失敗に終わった経緯を報告する。なお、失敗の原因は測定者の技術的瑕疵によるものではなく——少なくとも第五回目まではそうであった——塔そのものの構造的非協力にある。測量対象が測量を拒否するという事態は、われわれの学問の体系の中に用意された引き出しのどれにも収まらない。引き出しそのものを新しく作る必要があるが、その引き出しの寸法を決めるために、まず塔を測量しなければならない。
序論
果汁の塔は、聖杯座の中心部に位置するとされる¹⁾。「位置するとされる」と書いたのは、筆者がこれを実際に確認できたとは確信を持って言えないからである。塔はある。しかし「そこに」あるのかどうかは、「そこ」の定義に依存する。聖杯座の地図を広げれば、確かに中心に印が打たれている。しかしこの印が塔を示しているのか、塔が印を生成しているのかは、地図製作者の間でも見解が分かれる²⁾。
帝国の象徴として、塔は無数の図版、壁画、切手、硬貨に描かれてきた。それらの描写を比較してみると興味深い。壁画においては塔は細く、切手においてはやや太く、硬貨においてはさらに太い。これは単なる画家の個性ではなく、描画媒体の粘度に塔の表象が影響を受けていることを示唆している——つまり塔は、それを記述する媒体の物性を反映して形を変える。
このことに筆者が気づいたのは、測量の第三回目の失敗の後、帝都の酒場でぬるいジュースを舐めていたときのことだ。壁に掛けられた塔の絵が、瞬きするたびに微妙に異なる比率で見えた。酔っていたのかもしれない。しかし考えてもみて欲しい。聖杯座では大気そのものが高濃度ジュースを含んでいる。呼吸しているだけで酔うのだ。つまりここでは、観測者が醒めていること自体が統計的に異常な状態である。
なお、本稿の執筆にあたり、筆者の前任者たちの記録を参照した。前任者リコッタ技師(AS 808年着任)の測量日誌、その前任者パンナ技師(AS 779年着任)の覚え書き、そのさらに前任者クレーマ技師(AS 749年着任)の報告書断片が、測量局の書庫に保管されている。いずれも未完である。筆者はこれらの記録を参考資料として適宜脚注に引用するが、本文に影響を及ぼすことはない³⁾。
第一回測量(AS 837年春)
測量局の標準手順に従い、三角測量法を用いた。基線を塔の南方500オルラに設定し、二点から角度を測定する。教科書通りの作業である。教科書通りでなかったのは結果の方であった。
二点から得られた角度を計算すると、塔高は「負の値」を示した。
すなわち、三角測量の計算上、塔は地面より下に存在することになった。これは明らかに誤りである。筆者は塔を見上げていた。見上げた対象が地面より下にあるという主張は、首の角度が嘘をついているか、地面の定義が間違っているかのいずれかを意味する。
筆者は首の角度を信頼した。
報告書には「測定条件の不備により再測量を要す」と記載し、仮値として1,000オルラと記入した⁴⁾。実際には何の根拠もない数値である。しかし空欄で提出するわけにはいかない。帝国の書式には空欄というものが存在しない——空欄は「不在」であり、不在は記録統治上「存在しない」と等価であるからだ。存在しない測量に予算は下りない。筆者は1,000オルラという数字を、呼吸をするように書いた。この数字がどのような運命を辿ることになるかについては、本稿の末尾に記す。
第二回測量(AS 837年秋)
手法を変更し、影の長さから塔高を逆算する日影測量法を採用した。秋分の日を選び、午後二時に塔の影の全長を歩測した。
影は西へ1,204オルラ延びていた。しかし筆者が影の先端を記録し、起点へ戻ると、影は1,207オルラに変わっていた。筆者が再び先端へ向かうと、今度は1,201オルラであった。
影が伸縮していた。
あるいは、筆者が影を歩いている間に、塔の高さが変動していた。あるいはそのいずれでもなく、影は一定であり、筆者の歩幅が影の上では変化していた。この三番目の仮説は馬鹿げているように聞こえるかもしれない。しかし筆者が影から一歩出るたびに、靴底に薄い橙色の液体が付着していたことは記録しておくべきだろう。影は濡れていた。塔の影は、ジュースを含んでいた。
「計測する者は、計測する間だけ、計測される側に属する」
カナーレ第一法則⁵⁾
第三回測量(AS 838年冬)
錘を用いた直接落下法。塔の頂上に登り、錘を紐に結んで垂らし、紐の長さを計る。最も原始的で、最も確実なはずの方法である。
結論から言えば、塔の頂上には到達できなかった。
筆者は帝国通行証を携え、塔の入口から階段を登り始めた。二千段を数えたところで窓の外を見ると、聖杯座の屋根が眼下に広がっていた。これは予想通りの光景であった。さらに三千段を登ると、雲が眼下に見えた。これも——まあ、予想の範囲内であった。五千段を超えたあたりで、窓から見える景色が変わった。聖杯座の街並みが再び眼下に広がっていたのだ。
筆者は同じ階段を二度登っていた。
あるいは、塔が筆者の上昇に合わせて下方へ伸長していた。あるいはそのいずれでもなく、「上」という概念が塔の内部では帝国の法律⁶⁾とは異なる定義で運用されていた。
六千段を超えた踊り場で、筆者は一組の測量器具を発見した。三脚、水準器、手帳。手帳の表紙には「A. リコッタ」と記されていた。筆者の前任者の名前である。器具は埃をかぶっていたが、水準器の泡だけは動いていた。28年前の気泡が、まだ水平を探していた。
手帳を開くと、リコッタの筆跡で日付が記されていた——AS 810年。28年前。最後の記述はこうだった。「七千段。景色、三度目。下りることにする。この塔には頂上がない。あるいは頂上は、到達する者がいないことによってのみ存在する⁷⁾」
筆者はリコッタの器具を踊り場に残し、さらに登った。七千段を超えた次の踊り場にも器具があった。今度はパンナのものだった。手帳には「AS 780年。八千段で断念。リコッタ君の器具を発見。不憫に思うが、余のものと並べて置いておく⁸⁾」と書かれていた。
その隣に、もう一組あった。クレーマのものだった。手帳には「AS 752年。この踊り場に先客がいたとは。名前の読めぬ手帳が一冊。しかし測量器具は見当たらない。器具なしで何を測っていたのか⁹⁾」と書かれていた。
クレーマの記述する「名前の読めぬ手帳」は、クレーマ自身の手帳の隣にはなかった。
そのとき筆者は——ここで個人的な記述を差し挟むことを許されたい——階段の踊り場で嘔吐した。吐瀉物は橙色であった。朝食には白粥しか食べていなかったにもかかわらず。手を洗おうとして壁に触れたとき、指先に文字のような凹凸を感じた。しかしそれを読む余裕はなかった。
第四回測量(AS 838年夏)
音響測量を試みた。塔の基部で鋭い音を発し、頂上からの反響音までの時間差を計測することで、高度を推定する方法である。
発した音は、返ってこなかった。
二度目の試行では、塔の基部で鐘を打った。鐘は鳴った。しかし反響音は、筆者が鐘を打つ三拍前に到着していた。筆者が鐘を打とうと腕を振り上げた瞬間に、すでに反響音が聞こえていたのだ。
音は塔を上昇したのではなく、時間を降下したのだ。
筆者の助手であるスルパは、この現象について「先生、もしかして塔の中では時間が発酵しているのでは」と述べた。筆者はこの発言を当初は軽率なものとして退けた。
ここで前任者の記録を確認すべきであろう。リコッタの測量日誌(第三回踊り場で回収した手帳)には、同様の音響実験の記述が見られる¹⁰⁾。
「鐘を打つ前に反響音が聞こえるというカナーレ技師の報告は、余の経験と一致する。ただし余の場合、反響音は鐘を打つ二拍前に到着した。カナーレ技師の場合は三拍前である。この差の一拍は、余とカナーレ技師の間に横たわる28年間に相当するのだろうか」
ここで筆者は手帳を閉じた。
リコッタの手帳は、AS 810年に書かれたものである。筆者がこの手帳を回収したのはAS 838年である。リコッタの記述が筆者の名前——「カナーレ技師」——を含んでいることの意味について、筆者はしばらく考え、考えることを止め、代わりにコーヒーを淹れた。コーヒーは橙色だった。聖杯座の水は、すべて橙色だ¹¹⁾。
第五回測量(AS 839年春)
遂に筆者は、塔を測量する代わりに、塔に隣接する建物を測量し、その比率から塔高を推定する間接測量法に切り替えた。果汁中枢庁の庁舎は塔の東方に建っており、その高さは公式記録では246オルラとされている。
筆者は庁舎の高さを独自に測量した。結果は246オルラであった。正確だ。世界はまだ正常に機能している。安堵した。
次に、庁舎と塔を同一写真に収め、比率から塔高を算出しようとした。写真を撮影した¹²⁾。現像した。写真には庁舎が映っていた。塔は映っていなかった。
撮影時には塔は確かに視界にあった。筆者の目がそう言っている。しかし写真は沈黙していた。写真の中で、塔があるべき場所には、ただ空が映っていた。空は甘い色をしていた。
三枚撮り直した。結果は同じであった。塔は写真に転写されることを拒否した。
四枚目を現像したとき、異変があった。塔は映っていなかったが、塔の影の中に人影が映っていた。撮影時、その場所に人はいなかった。現像液の中に沈んだ写真を見つめていると、人影は——少しずつ——動いているように見えた。三脚を立てていた。測量器具を組み立てていた。
パンナの報告書断片に、似た記述がある¹³⁾。
「写真に余が映っていた。撮影したのはこの余であるから、被写体になることは物理的に不可能である。しかし映っていた。60年後にこの写真を見る者がいるとすれば、そこに映っているのが余なのか、余の後任なのか、あるいは余の前任なのか、判別はつくまい。判別がつかなくて構わない。塔の影の中では、全員が同じ測量をしているのだから」
パンナの報告書は、AS 780年に書かれたものである。「60年後にこの写真を見る者がいるとすれば」。AS 780年の60年後は、AS 840年である。本稿の刊行年は、AS 840年である。
ちょうどである。
その「ちょうど」は、誰が合わせたのだろうか。
「帝都建築測量局年次報告書 AS 839より。見えるが記録できないものは、存在と呼ぶべきか、不在と呼ぶべきか。果汁中枢庁は前者を採るが、測量局としては後者を採らざるを得ない。なぜなら、記録できないものに予算は下りないからである」
この段落を書いたのは筆者である。しかし筆者がこの段落を書く前に、リコッタの手帳にほぼ同一の文面があったことを、筆者は知っていた。リコッタがこの文面を書く前に、パンナの覚え書きにほぼ同一の文面があったことを、リコッタは知っていただろうか。
第六回測量(AS 839年秋)
この頃から、筆者は奇妙な感覚に囚われるようになっていた。
書いている文章が自分の文章ではないような気がする、という感覚である。筆者は「筆者」と書く。常にそう書いてきた。しかし第四回測量の報告の一部を読み返したとき、「余」と書かれた一文が混じっていることに気づいた。筆者は「余」とは書かない。リコッタは「余」と書く。パンナも「余」と書く。
書き直した。しかし書き直した文章の中に、今度は「予」が混じっていた。「予」と書くのはクレーマである。
筆者の論文に、前任者たちの人称が浸潤している。
しかし人称の浸潤よりも深刻な発見が、その直後に訪れた。
本稿の構成を改めて確認する。筆者は七回の測量を、三角測量、日影測量、直接落下法、音響測量、間接測量、仮説構築、無測量の順で実施した。この順番は筆者が自由に選択したものである——少なくとも、そう信じていた。
リコッタの日誌を通読した。リコッタもまた、三角測量から始めていた。日影測量がそれに続き、直接落下法、音響測量と続いた。同じ順番であった。パンナの覚え書きを確認した。同じ順番であった。クレーマの報告書断片は最初の三回分しか残っていないが、その三回は——三角測量、日影測量、直接落下法であった。
四人の測量技師が、90年の間隔を置いて、同じ順番で同じ方法を試み、同じ場所で同じ結論に達している。
筆者はここで、自分が何を書いているのかについて、根本的な疑念を抱くに至った。筆者はこの報告書を、自身の経験に基づく新規の文書として起草した。しかしそうではなかったのかもしれない。筆者はリコッタの日誌を「書き直して」いたのではないか。リコッタはパンナの覚え書きを「書き直して」いたのではないか。パンナはクレーマの報告書を「書き直して」いたのではないか。
本稿の表紙には「第三稿」と記されている。筆者はこれを、自身の推敲回数として記入した。第一稿を書き、第二稿で構成を直し、第三稿で提出した。しかし今、この数字が別の意味を帯び始めている。クレーマの報告書が第零稿であり、パンナの覚え書きが第一稿であり、リコッタの日誌が第二稿であるならば——本稿は確かに「第三稿」である。筆者がそのつもりで書いたのではないにもかかわらず。
あるいは、筆者はそのつもりで書いたのかもしれない。筆者にはもう、自分の意図と塔の意図の区別がつかない¹⁵⁾。
聖杯座に赴任してからの三年間で、筆者は明らかに多くの夢を見るようになっていた。夢の中で塔が立っていた。夢の中の塔には高さがあった。測ることができた。夢の中での測定値は毎回異なっていたが、少なくとも測定は可能であった。つまり塔は、夢の中でだけ測量に協力的であった。
問題は、夢の中の筆者が「筆者」であるとは限らなかったことだ。ある夢では筆者はリコッタだった。リコッタとして塔を測量し、リコッタとして踊り場で器具を置いた。別の夢では筆者はパンナだった。パンナとして写真を撮り、パンナとして現像液の中に人影を見た。
ここで筆者は一つの仮説に至った。
塔の高さは、覚醒状態では測定不能であり、夢酔い状態においてのみ測定可能になる。しかし夢酔い状態における「測定者」は、覚醒時の測定者と同一人物であるとは限らない。塔は、測量者の記憶を果汁として取り込み、循環させる。30年前のリコッタの記憶と、60年前のパンナの記憶と、90年前のクレーマの記憶が、塔の内部で液体として混ざり合っている。筆者がこの塔に近づくたびに、その混合液の飛沫を浴びているのだ。
助手スルパの発言が、ここで改めて重みを持つ。「塔の中では時間が発酵している」。発酵——すなわち、泡構文的な時間の非線形性。過去に向かって生成される自己参照的な構造。リコッタが28年前の手帳にカナーレの名を書けた理由は、塔の内部時間がすでにカナーレの到着を「発酵」によって先取りしていたからではないか。
ジュースの三段階——気体、液体、固体——になぞらえるならば、時間にもまた三つの相があるのかもしれない。揮発する時間(気体)、流れる時間(液体)、結晶化した時間(固体)。塔の内部では、時間は液体であり、外部の固体的時間とは混ざらない。計測とは二つの時間を同一の尺度で比較する行為であるが、液体を固体の定規で測ることはできない。
筆者はここで二週間の休暇を申請した。聖杯座の大気から離れ、頭を冷やす必要があった。
休暇は却下された。却下通知の書式に、筆者は見覚えのある筆跡を見つけた。30年前にリコッタが提出した休暇申請の却下通知と、同一の文面、同一の筆跡であった¹⁴⁾。
第七回測量(AS 840年冬)
最後の測量は、厳密には測量ではなかった。
筆者は塔の前に立ち、何も計測しなかった。器具を持たず、紙も持たず、ただ立って塔を見上げた。
塔はそこにあった。
高さがどれほどであるかは分からなかった。しかし「高い」ということは分かった。「高い」は数値ではない。「高い」は感覚である。そして感覚は、聖杯座においては、数値よりも確実な情報伝達の手段である——何しろこの都市では、大気そのものがジュースの気体相であり、感覚はジュースを介して直接伝播するのだから。
筆者は塔を見上げたまま、30分間動かなかった。
いや——余は30分間動かなかった。
いや——予は。
そのとき、塔の外壁を流れ落ちるジュースの一滴が、額に落ちた。冷たかった。その冷たさの中に、何かが含まれていた。記憶のようなもの。
リコッタの記憶だった。リコッタがこの同じ場所に立ち、この同じ空を見上げた記憶。リコッタの額にもジュースの一滴が落ちた。その一滴には、パンナの記憶が含まれていた。パンナの額にもジュースの一滴が落ちた。その一滴には、クレーマの記憶が含まれていた。クレーマの額にもジュースの一滴が落ちた。その一滴には——名前の読めぬ手帳の主の記憶が含まれていた。
塔は過去の測量者たちの記憶を含んでいる。
塔を測量しようとする全ての試みは、塔の中に取り込まれ、ジュースとして循環する。七度の測量は、すでに塔の一部である。この論文もまた、塔に取り込まれるだろう。この論文を読んでいるあなたもまた——。
しかしこれ以上の推論は、測量技師の職務範囲を超える。
結論
果汁の塔の高さは測定不能である。
この結論に至るために七回の測量は必要なかったかもしれない。一回目で十分だったかもしれない。リコッタの一回で十分だったかもしれない。パンナの一回で十分だったかもしれない。クレーマの一回で。名前の読めぬ者の一回で。
しかし測量技師は測量するものである。パン屋がパンを焼くように、測量技師は測量する。対象が測量不能であるからといって、測量を止める理由にはならない。パン屋が、小麦粉が存在しないことを理由にパンを焼くことを止めるだろうか。止めない。止めないだろう。止めないと信じたい。
なお、本稿の最終校正の段階で、著者欄に関する問題が発生したことを付記する。本稿は筆者ペルジャーノ・カナーレの単独著作として起草された。しかし校正刷りの段階で著者欄を確認したところ、以下の名前が追加されていた。
- A. リコッタ
- F. パンナ
- G. クレーマ
- 氏名不詳の技師14名
筆者はこれらの名前を追加していない。印刷所に問い合わせたが、印刷所もこれらの名前を追加していない。
18名の共著者のうち、生存が確認されているのは筆者のみである。残りの17名は死亡しているか、あるいは記録上の存在が確認できない。14名に至っては、名前すら不明である。しかし彼らの名前は——名前が不明であるにもかかわらず——著者欄に確かに印字されている。名前のない名前が、印字されている。
筆者はこの問題について果汁中枢庁に相談することを検討したが、中枢庁の窓口は午後三時に閉まっており、筆者がこの段落を書いている現在は午後三時七分であるため、断念した。
本稿は以下を報告する:
1. 果汁の塔は三角測量において負の高度を示す。 2. 果汁の塔の影は液体を含み、伸縮する。 3. 果汁の塔の階段は上昇を循環に変換する。歴代の測量技師の器具が踊り場に堆積している。 4. 果汁の塔内部の時間は発酵している。音は時間を降下する。 5. 果汁の塔は写真転写を拒否する。ただし、撮影者の不在の像を生成する。 6. 果汁の塔は測量者の記憶を果汁として取り込み、循環させる。その結果、測量者の人称は浸潤を受ける。 7. 果汁の塔の測量報告書は、書き手の意図に反して、過去の報告書と合流する。
以上の七点は、以下の一文に要約される。
果汁の塔は、測定対象ではなく、測定行為そのものを消化する器官である。
結論は述べた。しかし結論に到達したわけではない。結論に到達するためには、結論の高さを測定しなければならないが、結論の高さは——。
追記(AS 840年、第三稿提出の翌日)
本稿の提出後、果汁中枢庁より出頭命令を受けた。庁舎へ赴くと、窓口の役人は筆者の論文を手にしており、こう述べた。
「カナーレ技師。あなたの論文は塔の高さが測定不能であると主張しているが、帝国公式記録では塔の高さは1,000オルラと定められている。従って、あなたの論文は帝国の公式記録と矛盾する」
筆者は尋ねた。「1,000オルラという数値の根拠は何ですか」
役人は台帳を開いた。果汁中枢庁令第3312号、AS 837年付。「果汁の塔の公式高度を1,000オルラと認定する。根拠:帝国建築測量局報告書AS 837年第1号」
帝国建築測量局報告書AS 837年第1号。
それは筆者の第一回測量報告書であった。
測量結果が負の値を示したために「測定条件の不備」と記載し、仮値として——呼吸をするように——1,000オルラと書き込んだ、あの報告書であった。
筆者が三年前に根拠なく書いた仮の数字が、果汁中枢庁によって公式記録に取り込まれ、帝国の真実として認定されていた。そして今、その「真実」が筆者の論文を否定するために使われている。
筆者は自分が書いた嘘に、自分で反論していた。
役人はさらに述べた。「なお、この公式記録は、リコッタ技師の報告書AS 808年第1号の記載値とも一致しています」
筆者は尋ねた。「リコッタ技師の報告書にも1,000オルラと記載されているのですか」
「はい」
「リコッタ技師がその数値を記入した根拠は何ですか」
役人は台帳をさらに遡った。しばらく頁を繰り、顔を上げた。
「パンナ技師の報告書です」
「パンナ技師の根拠は」
「クレーマ技師の報告書です」
「クレーマ技師の根拠は」
役人の指が台帳の上で止まった。彼は筆者を見つめた。彼の目は甘かった。聖杯座の役人の目は、みな甘い。高濃度ジュースの大気に長年曝された結果、瞳孔の周囲に薄い橙色の環が形成されるのだ。
「根拠欄に記載されている文書は」彼はゆっくりと読み上げた。「『帝国建築測量局報告書AS 837年第1号』です」
筆者の報告書であった。
まだ書かれていなかった筆者の報告書が、85年前のクレーマの報告書の根拠として引用されていた。
役人は台帳を閉じた。
「以上の通り、公式記録は公式記録に基づいて作成されています。何かご質問は」
筆者に質問はなかった。
参考文献
[1] ムッコ・テッランチ, 「帝都建築の粘度依存的表象変位について」, 『泡構造建築紀要』第72巻第1号, AS 819, pp. 88–112.
[2] ゼルジャ・ポメリダ, 「聖杯座の地図における印と対象の因果関係の再検討——印は指すのか、指されるのか」, 『記録統治年報』第33号, AS 828, pp. 45–62.
[3] 本文の著者は、この主張が本文の末尾において撤回されることを、執筆時点では知らない。さらに言えば、著者は本稿を「新規の文書」として起草したと信じているが、本稿が前任者たちの報告書の書き換えにすぎない可能性についても、この時点では気づいていない。著者がそのことに気づくのは第六回測量の項においてである。ただし、その「気づき」自体がリコッタの日誌に記された気づきの書き換えである可能性を、著者は最後まで検討しない。
[4] この仮値の帰結については追記を参照。追記を先に読んだ読者は、本報告書を「結末を知った上での推理小説」として読んでいることになるが、塔の内部では時間が発酵しているため、結末が冒頭に位置すること自体は特に問題ではない。
[5] この「法則」は測量学の正規の教科書には掲載されていない。掲載を申請したが、教科書委員会は「法則の提唱者自身が計測対象に帰属した場合、法則の客観性が棄損される」という理由で却下した。しかし却下の決定を行った委員長は、翌年聖杯座に転任し、塔の影を踏んだ日に辞職した。
[6] 奉杯ジュース規格第25条「重力の政治的定義」を参照のこと。帝国内における液体の流動方向は、常に「上位(王)」から「下位(臣民)」へ向かうものと定義されている。この定義が空間方向「上」の認知にどのような歪みを与えるかについては、本稿では論じない。論じたいが、論じると昇進に響く。
[7] リコッタ測量日誌、AS 810年3月14日の項。なおリコッタはこの日以降の測量を中止しており、日誌はこの記述で終わっている。最後の一行の下に、ジュースの染みが丸く広がっていた。涙か、天井からの滴下かは判別できない。
[8] パンナ覚え書き、AS 780年11月2日の項。パンナは「余」と書く人物であり、リコッタのことを「リコッタ君」と呼んでいるが、両者が対面した記録はない。パンナがリコッタの名前を知っている理由は不明である。あるいは、理由は明白かもしれない。
[9] クレーマ報告書断片。日付なし。「名前の読めぬ手帳」は筆者の踊り場探索でも発見できなかった。存在したのか、しなかったのかは確認できない。クレーマの記述だけが、その手帳の「存在の証拠」であり、記録統治的にはこれで十分である——記録上存在するものは存在するのだから。ただしこの論理を塔の高さに適用すると、塔の高さは1,000オルラである。筆者がそう書いたのだから。
[10] この脚注において、筆者はリコッタの手帳から引用する。しかし引用元の手帳には、引用先である本稿の著者名が記されている。リコッタが本稿を参照して手帳に書いたのか、本稿がリコッタの手帳を参照して書かれたのか、両方が塔の内部で同時に発酵しているのか、筆者にはもう判別がつかない。
[11] 正確には、聖杯座の上水道のジュース含有率は公式には0.003%とされている。この数値の根拠は公式記録である。公式記録の根拠については、読者はすでに十分な知見を得ているものと思われる。
[12] 撮影には帝国標準型乾板写真機(果汁中枢庁管理番号PH-0443)を使用。レンズ系は果汁浸潤防止処理済み。ただし、処理の効果は本測量の結果に鑑みて疑わしい。管理番号PH-0443は、台帳上ではリコッタに貸し出されたまま返却されていない。筆者が使用したのは同一の機体か、あるいは台帳が間違っているか、あるいは台帳は正しく、筆者はリコッタの写真機で撮影したのか。
[13] パンナのこの記述は、AS 780年に書かれたことになっているが、文中に「カナーレ技師の場合は三拍前である」というカナーレの測量結果への言及がある。カナーレの音響測量が実施されたのはAS 838年であり、パンナの記述より58年後である。この矛盾について、筆者は第六回測量の項で述べた仮説——塔の内部では時間が発酵している——以外の説明を持たない。持ちたくもない。
[14] 却下通知の文面:「休暇の申請を却下する。理由:申請者の業務(果汁の塔の測量)は帝国の重要案件であり、中断は認められない。なお、本件と同一の申請が過去に提出された記録はない」。「過去に提出された記録はない」。ある。筆者の手元にリコッタの却下通知がある。しかし公式記録上は「ない」。記録上存在しないものは存在しない。
[15] この段落を書いた後、筆者は念のためリコッタの日誌を確認した。AS 810年の最後の記述——本稿の脚注7で引用した「この塔には頂上がない」の記述——の数頁前に、ほぼ同一の気づきが記されていた。「余はパンナの覚え書きを書き直しているのではないか」。リコッタもまた、自分が前任者の書き換えをしていることに、同じ段階で気づいていた。この気づきの一致は、筆者の気づきもまた「書き換え」であることを示唆している。つまり、この脚注もまた——しかしこれ以上の再帰は、印刷所の組版担当者の精神衛生のために中断する。
本稿は刊行12日後に果汁中枢庁令第4419号により「帝国施設に関する不穏な推論を含む文書」として回収された。著者ペルジャーノ・カナーレは同年、帝国建築測量局を依願退職し、以後の消息は記録にない。ただし、塔の基部付近で「測量器具を持った人影が立っている」という目撃証言が、その後200年にわたって断続的に報告されている。目撃証言における人影の人数は、報告のたびに増えている。最新の報告では18名であった。