[01 / LEYDA-MONO] · ST.27 / 20
#6 糸が絡む夜
#6 糸が絡む夜
模倣
ネルブラ荒野 南域:修復所管轄区域 回収集落G-12~G-18(修復所から南東二~五キロの範囲)
暫定採用から百九十日が経過。再審期限の百八十日を十日超過している。再審は実施されていない。再審が実施されない理由は、再審手続きの策定が完了していないためだ。策定の完了予定日は未定。未定のものは暫定的に有効であり、暫定的に有効なものは恒久的に暫定的である1。
修復所の管轄区域は、暫定採用後しばらくは集落G-12までだった。現在はG-18まで拡大している。拡大の根拠は規格の㊵『管轄区域の定義』だ。奉杯行列が延びれば、管轄区域も延びる。行列は延び続けていた。
G-15の広場に、モルドラッサの屋台と同じ形式の屋台が二台出ていた。
モルドラッサが出した屋台ではない。G-15の住民が、モルドラッサの屋台を模倣して自分で建てたものだ。弾痕はない——G-15は大戦の前線から離れていたため、車両フレームの代わりに廃材の角材で脚を組んでいた。天板には『寄進者価格』の札が貼ってある。札の書式はスクロヴロッカの三行の紙と同じ書式だ。書式が同じなら、受け取る側には公式と非公式の区別がつかない2。
屋台で出しているのはスープだった。モルドラッサのスープではない。だが塩の量が似ていた。甘香は入っていない——甘香はモルドラッサの独自の調合であり、製法は公開されていない。公開されていないものは模倣できない。模倣できないはずだが、スープを飲んだ者の舌には『安心の味』に似た何かが残った。似た何かは、本物より薄い。薄いものは安い。安いものは量が出る。量が出るものは、薄くても市場を埋める。
モルドラッサは、G-15の屋台の存在を知っていた。知っていたが、止めなかった。止める根拠がなかった。『安心の味』は商標登録されていない。商標登録の制度はこの地域に存在しない。存在しない制度で保護されないものは、誰でも使える3。
帳簿に新しい問題が生じた。モルドラッサの屋台の売上が、先月比で一割二分減っていた。減った分は、G-15の二台に流れている。流れた分を取り戻すには、値段を下げるか、品質を上げるか、G-15の屋台を止めるかだ。値段を下げれば利幅が減る。品質を上げれば原価が増える。G-15の屋台を止めるには——止める手続きがない。手続きがないものは止められない。
モルドラッサは値段を下げなかった。代わりに、値段を上げた。上げた理由は『祈祷の質の向上に伴う品質保証の強化』と、帳簿の欄外に書いた。欄外に書いたものは正規の記録ではないが、余白は正規の欄よりも自由だ。自由な欄に書いたものは、拘束力がない代わりに、削除の手続きも要らない。
黒点4
修復所・広場
広場の西側の屋台の裏に、小さな点が描かれていた。
点はインクではなかった。指の脂だ。人の指先には微量の油脂があり、平面に触れると痕跡を残す。痕跡は通常、数時間で乾いて消える。だが屋台の裏面は塗装が剥げたむき出しの木材で、木目の溝に油脂が入り込むと乾きにくい。乾きにくい痕跡は、翌日まで残る。
点はひとつではなかった。三つあった。三つの点は等間隔で並んでおり、間隔は約二センチ。三つの点の下に、細い線が一本引かれていた。線の長さは五センチ。線もまた指の脂で描かれていた。
スクロヴロッカの要約帯——『安全・円滑・恩恵』の三語が印字された路面のゴム帯——の上にも、同じ点が見つかった。帯の端、文字の上ではなく文字と文字のあいだに、三つの点と一本の線。帯は踏まれるものなので、靴底の泥で汚れているが、点と線は泥の下に描かれていた。泥より先に描かれたということは、帯が敷設された直後に描かれたということだ。
祈祷室の入口の柱にも、一組。倉庫区の連絡通路の壁にも、一組。合計四か所。
スクロヴロッカは最初の一組——屋台の裏——を見つけたとき、指で撫でた。指先にかすかな抵抗があった。紙やすり程度のざらつき。ざらつきは摩擦だ。摩擦は、彼の要約帯が排除しようとしてきたものだ。要約帯の摩擦係数は極限まで零に近づけられている。零に近づけられた帯の上に、ざらつきが描かれている。
スクロヴロッカは点を消さなかった5。
彼は点を消さなかった理由を説明しなかった。説明しなかった理由も説明しなかった。説明されないものは記録されない。記録されないものは、あとから問われない。
夜、修復所の待合棟で、孤児が長椅子の端に座っていた。手を洗う習慣のある子どもだ。子どもの右手の人差し指と中指の先に、木材の繊維が微量付着していた。木材の繊維は、屋台の裏面のむき出しの木材と一致する可能性がある。可能性は検証されなかった。検証する者がいなかったからだ。
逆拍6
修復所・倉庫区
倉庫区の天井で、二十三本の糸が梁を走っていた。
そのうち四本は、ポンプリーズカが張ったものではなかった。四本は倉庫区の梁から広場の方向に延びているが、ポンプリーズカの既存の糸とは異なる経路を通っていた。壁の隙間ではなく、天井の通気孔を経由している。通気孔はポンプリーズカが使っていなかった経路だ。使っていなかった理由は、通気孔の断面が糸を通すには狭いからだ。ポンプリーズカの糸は寄進伝票を裂いた紐で、幅は約二ミリ。通気孔の隙間は約一・五ミリ。通らない。
四本の糸は、通気孔を通っていた。幅が一・五ミリ以下の繊維を使っている。ポンプリーズカの糸より細い。細い糸は切れやすいが、通せる隙間が多い。
ポンプリーズカは四本の糸を引いてみた。張力が返ってきた。引いた力と同じ力で、反対方向から引き返された。糸の反対側に、誰かがいる。
誰かは特定できなかった。糸の反対側は広場のどこかだが、通気孔の中は目視できない。目視できない経路を通る糸は、追跡できない。追跡できない糸を除去するには、通気孔を物理的に塞ぐ必要がある。通気孔を塞ぐと換気が止まる。換気が止まると、倉庫区の空気中の甘苦い金属臭——禁制ジューストニウムの残留臭——が外部に漏れなくなる代わりに、内部に蓄積する。蓄積は検知リスクを上げる7。
ポンプリーズカは通気孔を塞がなかった。四本の糸をそのまま残した。残した糸が何に使われているかは確認しなかった。確認すると、確認した者の責任になる。確認しなければ、存在を知らなかったことになる。存在を知らなかったことは、管理の怠慢ではなく、管理対象の不在として処理できる。
その夜、広場の列の拍が〇・二秒ずれた。ずれは半拍には満たない。ポンプリーズカの十九本の糸ではなく、四本の不明な糸から伝わった振動が、列の拍に干渉していた。干渉の方向は、ポンプリーズカの糸とは逆位相だった。逆位相の振動は、ポンプリーズカの振動と部分的に打ち消し合う。打ち消された分だけ、列の同期が弱まる。弱まった同期は、個々の歩行者の自律的な歩調を回復させる。自律的な歩調は不揃いだ。不揃いは、制御の欠如を意味する。
ポンプリーズカの指先に、小さな裂傷があった。糸を引いたときに切れたものだ。糸が指を切ることは通常ありえない——彼の指は糸の摩擦に慣れている。切れたのは、引き返された力が想定外に強かったからだ。想定外の力は、想定外の操作者がいることを示唆する8。
血は梁の鉄錆と同じ色をしていた。
増えるものは、張った者より強い。ポンプリーズカは糸を数えるたびにそう感じる。糸の本数は彼の支配の範囲のはずだが、増えるほど彼の指が追いつかなくなる。支配されているのは、増える側ではない。支配しているつもりの、張った者のほうだ。聖杯が選ぶのはいつも増える方だ。選ばれた増殖は、選んだ側の手を離れて動き出す。
帳簿
修復所・西棟厨房(広場から西へ十五メートル)
モルドラッサの帳簿に、彼が書いていない行が現れた。帳簿は厨房の壁に掛けてあり、表紙は油煙で黄ばんでいる。開くと、綴じ糸が乾いた音を立てた。新しい行のインクは、モルドラッサのインクより濃かった。濃いインクは新しいインクだ。
帳簿は修復所の厨房の壁に掛けてある。厨房は修復所の西棟で、入口は鍵がない。鍵がない理由は、鍵を管理する手続きが策定されていないからだ。手続きがないものは運用できない。運用できないものは設置しない。鍵は設置されていない。
帳簿の新しい行には、スープの価格改定が記入されていた。改定後の価格は、モルドラッサが設定した現行価格の一・二倍だった。筆跡はモルドラッサのものではない。筆跡は修復所の事務員のものに似ていたが、事務員は三名おり、どの事務員かは特定できなかった。
価格改定の根拠欄には、こう書いてあった——脚注㊸『安心の味の品質維持に要する経費は受益者負担とする』に基づく。
根拠の脚注㊸の下には、参照される黙債の番号が小さく連なっていた。モルドラッサが読んだことのない番号だ。読んだことのない番号が、彼の帳簿を書き換えていた。
脚注㊸。モルドラッサはこの脚注を読んだことがなかった。規格草案の第七版にある百三十七の脚注のうち、モルドラッサが読んだのは自分の業務に直接関わる十二だけだ。㊸は読んでいない。読んでいないが、存在する。存在する脚注は有効だ。有効な脚注に基づく価格改定は、有効な価格改定だ。
モルドラッサは帳簿の新しい行を消さなかった。消す根拠がなかった。脚注㊸が有効であるかぎり、この価格改定は正当だ。正当なものを消すには、不当であることを証明する必要がある。不当であることを証明するには、脚注㊸の内容を検討する必要がある。脚注㊸の内容を検討するには、ジジバルバに依頼する必要がある。依頼するには——9
モルドラッサは依頼しなかった。依頼しなかった理由は、依頼すると『モルドラッサは価格を管理できていない』ことが明らかになるからだ。管理できていないことが明らかになることは、管理者としての地位を損なう。地位を損なわないためには、管理できているふりをする必要がある。管理できているふりをするためには、他者が設定した価格を自分が設定した価格として扱う必要がある。
翌朝、モルドラッサは帳簿の新しい行の横に、自分の印を押した。印を押した行は、モルドラッサが承認した行だ。承認した行は、モルドラッサの責任になる。責任が移動した。移動したのは責任だけではない。訂正する権限も一緒に移動した。帳簿の行を書き換えるには、書き換えの根拠が要る。根拠は脚注㊸だ。脚注㊸は読んだことがない。読んだことのない脚注を根拠として持つ行は、モルドラッサのものではない。モルドラッサのものでない行に印を押したモルドラッサは、行の所有者ではなく、行の引き受け手だ。移動先はモルドラッサだ。移動元は不明だ。不明な移動元は、追跡する必要がない10。
要約の古さ11
帝都北縁停留所〜奉杯修復所〜回収集落G-18間 要約帯敷設区域
スクロヴロッカの要約帯は、修復所の広場から帝都北縁の市電停留所までの区間に敷設されていた。全長約二キロ。半年前はこの距離だった。
現在、要約帯は南東方向に延伸され、G-18まで到達していた。全長約七キロ。延伸の作業は、スクロヴロッカが指示したものと、集落の住民が自発的に敷設したものが混在している。自発的に敷設された区間は、全長の約四割を占める。自発的な敷設に使われた帯は、スクロヴロッカが製造したものではなく、集落の住民が厚い油布に三語を手書きしたものだ。手書きの三語は、印字の三語と書式が異なる。だが内容は同じだ。安全、円滑、恩恵。内容が同じなら、書式が異なっても機能は同じだ——踏む者にとっては12。
帯を踏んだ者には、ノンスリップ保証章が配布されるようになっていた。保証章はスクロヴロッカが作った小さなバッジで、表面に『安全保証』と刻まれている。裏面に何が書いてあるかを確認した者は、修復所の記録上、一人もいない。
問題は内容だった。
帯に書かれた三語は、敷設された時点の三語だ。敷設されたあとに規格が改訂されても、帯の三語は更新されない。帯は路面に固定されているからだ。固定されたものの内容を更新するには、帯を剥がして新しい帯を敷く必要がある。剥がす手続きはある。敷く手続きもある。だが七キロの帯を剥がして敷き直す人手は、修復所にはない。
七キロのうち、最も古い区間は修復所の広場前だ。ここの帯は百九十日前——規格の暫定採択直後——に敷設されている。百九十日前の三語と、現在の三語は同じだ。安全、円滑、恩恵。三語は変わっていない。だが三語の『意味』は、百九十日のあいだに脚注によって拡張されている。百九十日前の『安全』と、現在の『安全』は同じ語だが、脚注の数が異なる。百九十日前の『安全』には脚注が三つだった。現在の『安全』には脚注が十七ある。十七の脚注を読まずに『安全』を踏んだ者は、三つの脚注の『安全』を踏んだことになるのか、十七の脚注の『安全』を踏んだことになるのか。
スクロヴロッカは、この問いに答えなかった。答えなかった理由は、答えると三語の有効性に疑義が生じるからだ。疑義は規格第七条違反だ。自分自身の道具に疑義を呈することは、自分自身に疑義を呈することだ。
帯はそのまま残された。古い意味の三語が、新しい現実の上に敷かれたまま。踏む者は気づかない。踏む者にとっては、三語は三語だ。
黒点が、帯の端に一つ増えていた。昨日はなかった場所に。
帯の表面を風が撫でた。乾いた砂が一粒、三語の『滑』の字の上で止まった。
浄化(第七回)
修復所・倉庫区
規格上は十八日ごと。実際には、七回目が来るまでに二十八日が経っていた10。差の十日は五人のうち誰も記録していない。記録されない遅延は、遅延として存在しない。存在しない遅延は、規格のサイクルを逸脱していない。
手順は変わらない。変わらない手順を、変わった身体が実行する。スクロヴロッカがジジバルバの鱗を剥がす。モルドラッサがスクロヴロッカの舌を引く。ポンプリーズカがモルドラッサの頬を削ぐ。グリッボロンカがポンプリーズカの萼を掴む。ジジバルバがグリッボロンカの前に立ち、「おる」と言う。
ジジバルバの左肩第三鱗の跡は、前回剥がされた痕がまだ薄く残っていた。再生は間に合っていたが、縁の閉じ方が浅い。ポンプリーズカの右手の人差し指の裂傷は、まだ完全には塞がっていなかった。モルドラッサの頬の内壁には、糸で削がれた線が前回より一本増えている。スクロヴロッカは舌を引かれたあと、何度か唾液を飲み込んだ。飲み込んだあと、ゴムの味が戻ってきた。前回より早く戻ってきた。グリッボロンカの足元には、紫の粒が複数落ちていた。落ちた粒は床を転がり、ポンプリーズカの靴の縁で止まった。ポンプリーズカは粒を見たが、拾わなかった。拾う手続きがない。累積は誰も言わなかった。言わないことで、累積はまだ始まっていないことになる。
七回目は、六回目と同じ速さで終わった。速さは変わらなくなっていた。速さが変わらないことは、手順が完全に身体に入ったことを意味する。完全に入った手順は改善の余地がない。改善の余地がないものは最適化されている。最適化されたものは変更する理由がない。変更する理由がないものは永続する。
ただし、永続するのは手順だ。手順を実行する身体は、永続しない。ジジバルバは喉の奥で何度か息を詰めた。詰めた息は、構文圧の代わりに肺に戻った。スクロヴロッカは要約札の紙を一段だけ滑らかな紙に変えていた。紙のほうを滑らせれば、舌のほうは滑らなくてもいい。モルドラッサは新しい客にスープを出すとき、味見をさせるようになっていた。「これでええか」とは聞かなかった。聞くと、味の判定の主体が彼から客に移る。移ってもよかった。ポンプリーズカは右手の指で糸の張力を測ろうとした。測れた。測れたが、前より一段、弱い張力までは感じ取れなくなっていた。
浄化のあと、五人が倉庫区に残った。通常は処理が終われば散る。散るのが手順だった。今夜は散らなかった。
ポンプリーズカが口を開いた。
「糸が四本、増えとる。わいが張ったんやない」
スクロヴロッカが応じた。
「帯の端に点が増えとる。拭いても翌日にはまたある」
モルドラッサが付け加えた。
「帳簿に知らん行がある。価格改定。わいの印やない筆跡で」
三人が話し終わるまで、ジジバルバは黙っていた。グリッボロンカも黙っていた——グリッボロンカは常に黙っている。
ジジバルバは話さなかった。脚注の七つの未確認については話さなかった。事務員が指示なしで脚注を書いていることも話さなかった。話さなかった理由は、三人が報告したことと自分の問題が同じ構造であることに気づいたからだ。
糸が増える。点が増える。行が増える。脚注が増える。増えるものを止める手続きがない。止める手続きがないことは、四つの問題すべてに共通している。共通していることを口にすると、四つの問題が一つの問題になる。一つの問題は四つの問題より大きい。大きい問題は、対処を要求する。対処を要求されたとき、対処できなければ——
対処できない者は、管理者ではない。管理者でない者が管理者の席に座り続ける手続きは、策定されていない。策定されていない以上、座り続けることは暫定的に有効だ。暫定を維持するには、対処を要求される状況を回避する必要がある。回避するには、問題を四つに分けたまま置いておくのが最も安い。分けられた問題は、それぞれ別の場所で別の速度で増える。
ジジバルバは口を開いた。
「明日の奉杯祭の準備を確認する」
話題が変わった。変えたのはジジバルバだ。変えたことに三人は気づいた。気づいたが、話題を戻さなかった。戻す理由がなかった——話題を戻す手続きは存在しない13。
倉庫区の天井で、二十三本の糸と四本の不明な糸が、並行して梁を走っていた。二十七本の糸は互いに触れていない。触れていないが、同じ梁の上にある。同じ場所にあるものは、異なる出自であっても、やがて絡まる。絡まった糸は、元の糸と区別がつかなくなる。
糸が絡まる前に、帯の点が増えた。帳簿に知らない行が入った。脚注の未確認が七つ残った。四つは四つのまま、別々の場所で別々の速度で増えた。一つにすれば対処を要求された。対処できなければ、管理者ではなくなった。五人が会話をしなかったのは、会話をすれば五人が管理者でなくなることに気づいていたからだ。気づいていたことは、口にしなかった。口にしないことが、暫定を維持する唯一の方法だった。
点
深夜、増設棟。
ジジバルバは紙を開いた。規格草案の第八版。本文四条、脚注百六十二。前版から二十五増えていた。二十五のうち、ジジバルバが書いたのは十一。事務員が書いたのは十四。事務員が書いた十四のうち、ジジバルバが内容を確認したのは六。残りの八は、確認する前に参照網に組み込まれていた14。
前回は七だった。今回は八。増えている。
彼は『自然』の横に点を打った。爪の先で紙の繊維を押し潰した。点はもう、光の角度によらなくても見えるかもしれない。密度が上がっている。密度が上がった点は、やがて語の輪郭を曖昧にする。曖昧になった語は、読むために注釈が必要になる。注釈が必要な語は、脚注の中に移動する。移動した語は、本文ではなくなる。
明日は要約の配布を先にやる。配布を先にやれば、審議が速くなる。審議が速くなれば、脚注を書く時間が増える。
窓の外の停留所で、市電が停車していた。停車時間は計測していない。
板が軋んだ。書棚の四段目の板だ。脚注の束が増えた分の重さが、板にかかっている。板は廊下の棚板を転用したものだ。棚板は書棚の重量を支えるようには設計されていない。設計されていないものに荷重をかけ続けると、いつか板は折れる。折れるまでは、軋みだけが警告になる。
軋みは毎晩聞こえた。毎晩聞こえるものは、日常の音になる。日常の音は、警告にならない。
ジジバルバは灯りを消した。明日、板を補強するかどうかを考えた。考えて、考えるのをやめた。補強の手続きは——たぶん——ある。たぶんあるものは、探せば見つかる。見つかるものは、明日でいい。
Footnotes
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浄化サイクルの実運用について。規格上は十八日ごととされているが、実際には諸事情により二十八日から三十日で回っている。『諸事情』の内訳は五人のうち誰も記録していない。記録されない遅延は、遅延として存在しない。遅延として存在しないものは、十八日サイクルに組み込まれていないから、サイクルを逸脱していない。 ↩
-
再審期限の超過については、奉杯ジュース規格(暫定採用版)脚注⑩『暫定採用』により、暫定採用は期限到来時に自動延長される。 ↩
-
書式の同一性と権威の関係については、スクロヴロッカの報告指針(非文書化)に『書式が権威の八割を担う』との記述があるとされるが、報告指針が非文書化であるため、引用の正確性は検証できない。 ↩
-
存在しない制度による不保護は、保護の不在を意味するが、同時に侵害の不在も意味する。侵害が存在しなければ、被害も存在しない。被害が存在しなければ、救済も不要である。不要な救済のために制度を作ることは、資源の無駄であり、脚注㊹『効率的運用』に違反する。 ↩
-
『黒点』は本章の筆者が便宜的に付けた呼称であり、公式な名称ではない。公式な名称がないものは、公式には存在しない。公式に存在しないものは、監査の対象にならない。監査の対象にならないものは、増えても減っても、誰も報告しない。 ↩
-
スクロヴロッカが黒点を消さなかった理由については、複数の解釈が可能である。一つ目は、消す手続きがなかったため。二つ目は、消すと黒点の存在を認知したことになるため。三つ目は、黒点が要約帯の有効性を検証するための指標として有用だと判断したため。いずれの解釈も、本人に確認されていないため、等しく正当である。 ↩
-
『逆拍』とは、本章の筆者が便宜的に付けた用語であり、公式な音楽用語でも行政用語でもない。公式ではない用語で記述された現象は、公式には発生していない。 ↩
-
通気孔の構造と倉庫区の換気効率については、修復所の設備台帳に記載があるはずだが、設備台帳は聖務院の印刷工房で刷られており、印刷工房は脚注の増刷で手一杯であるため、設備台帳の更新は六ヶ月遅れている。 ↩
-
ポンプリーズカの指の裂傷は、修復所の医務記録には記載されていない。記載されていない理由は、ポンプリーズカが医務室に行かなかったからだ。行かなかった理由は、裂傷の原因を説明すると糸の存在が記録に残るからだ。記録に残らない裂傷は、発生していない裂傷と同じだ。発生していない裂傷から血が出ることは、矛盾ではない。矛盾は脚注で処理される。 ↩
-
依頼の手続きについては、聖務規格委員会の内部規定に『部門間照会票』の書式が定められている。ただし書式の記入欄に『依頼理由』があり、依頼理由に『管理不全』と書くと、管理不全が公式に記録される。公式に記録された管理不全は、次回の断罪の祭で証拠として使用される可能性がある。 ↩
-
帳簿への無断記入は、器物損壊に該当しうるが、記入された内容が規格の脚注に基づく正当な改定である場合、記入行為自体は『規格の運用』として処理される。運用として処理されたものは、犯罪ではない。犯罪でないものは、捜査の対象にならない。捜査されないものは、犯人がいない。犯人がいないものは、事件ではない。 ↩
-
要約帯の内容更新に関する手続きは、規格のどの脚注にも規定されていない。規定されていないことは、手続きが不要であることを意味するのではなく、手続きが必要であることに誰も気づいていないことを意味する。気づかれていない必要性は、不要と区別がつかない。 ↩
-
自発的に敷設された要約帯の法的地位は未定義である。未定義のものは違法でも合法でもない。違法でも合法でもないものは、放置される。放置された敷設が続けば、正規のものが正規である根拠もまた消失する。 ↩
-
倉庫区での五人の会話は記録されていない。記録されていない会話は、行われなかった会話と同じだ。行われなかった会話の中で交わされなかった情報は、共有されなかった情報と同じだ。共有されなかった情報に基づいて対処が行われないことは、怠慢ではなく、情報の不在による合理的な不作為である。 ↩
-
脚注総数に対する未確認脚注の比率は、第七版で5.1%(7/137)、第八版で4.9%(8/162)である。比率は微減しているが、絶対数は増加している。比率の微減は改善の指標として使用できるが、絶対数の増加は悪化の指標として使用できる。どちらの指標を使うかは、報告者の裁量による。 ↩